久し振りに目黒区役所に法令現調へ行って来ました。
目黒区役所は1966年に故村野藤吾氏が、千代田生命保険本社ビルとして設計したもの。
2000年に千代田生命は経営破綻しますが、2003年からは目黒区役所として利用されています。

今回はこの後の予定がありましたので、久し振りの訪問を楽しむことは出来ませんでしたが、何時の間にか庁舎機能を移転してしまった同じ村野藤吾氏が設計した横浜市役所の例もあるので、近いうちにまたやって来たいと思います。
以前の記事は ⇒ 《 こちら 》
- 2020/10/02(金) 17:44:58|
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公私ともに何かと忙しく、またも更新に時間が空いてしまいました。
今日、先ず紹介するのは

三井物産横浜ビル
レトロなビルではありますが、古い建物の多く建つ横浜では、それ程目立つデザインの建物ではありませんが、近代日本建築史においては大変重要な位置付けの建物なのです。
三井物産横浜ビルは1911年に遠藤於菟の設計により日本初の本格的鉄筋コンクリ-ト造のオフィスビルとして建てられ、現在も現役のオフィスとして使用されています。

設計者 / 遠藤於菟、酒井祐之助
建築年 / 1911年 ( 明治44年 )
所在地 / 神奈川県横浜市中区日本大通14

一見普通の建物にも見えますが、ア-ルをとった建物角のコ-ニスや柱型の柱頭部の装飾には、ア-ルヌ-ボ-やゼセッション様式が取り入れられています。
構造とデザインのみならず、機能面においても現代オフィスビル建築の模範ともなっているそうです。

次に紹介するのは

ラ・バンク・ド・ロア ( 元警友病院別館・旧露亜銀行横浜支店 )
2006年にこの辺りを散策中に、この建物を偶然見つけた時には廃墟のような状態でしたが、2010年から外壁改修と耐震改修を行った後、2011年に結婚式場のラ・バンク・ド・ロアとして使用されています。
設計者 / バ-ナ-ド・マイケル・ウォ-ド
建築年 / 1911年 ( 大正10年 )
所在地 / 神奈川県横浜市中区山下町51-2
横浜市指定文化財
この建物は1921年に露亜銀行横浜支店として建設されますが、露亜銀行が1926年に日本から撤退した為、事務所やドイツ領事館、横浜入国管理事務所等として使用され、警友病院別館となった後、1996年からは使用されずに廃墟のようになっていたのです。

小ぶりな建物ではありますが、彫りの深いイオニア式のオーダー柱やペディメントがバランス良く施された、バロック様式の優れたデザインの立面です。


狭い路地に面する立面にも、通りと同じ意匠が施されています。


見えない裏側に迄、全く手を抜いていないことには感心します。
以前の記事は ⇒ 〈 こちら 〉
- 2020/03/17(火) 19:09:00|
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今日は書類を受け取りに、神奈川県庁に行って来ました。
平日とは言え、コロナウイルスの影響か、横浜観光を楽しむ外国人の姿も少ないような気がします。
時間に余裕があれば、午前中から出掛けたいところでしたが、残念ながら事務所を出たのが2時を回っていたので、散策は日本大通り付近だけになりました。
先ずは

横浜市開港記念館 ( 横浜ジャック )
みなとみらい線の日本大通り駅から出ると目の前に優雅な姿を見ることが出来ます。
設計者 / 佐藤四郎、山田七五郎、福田重義 ( コンペ案 )
建築年 / 1917年 ( 大正6年 )
所在地 / 神奈川県横浜市中区本町1-6
横浜開港50周年記念事業のコンぺの福田重義の当選案を山田七五郎らが実施設計を行ったものです。
外壁は当時辰野金吾氏が多用し、辰野様式とも呼ばれた赤い煉瓦と白花崗岩によるストライプとジャック塔と呼ばれる塔が特徴です。

神奈川県庁本庁舎 ( 横浜キング )
スマートな印象のジャックと比べ、堂々たる印象の神奈川県庁本庁舎はキングと呼ばれるに相応しい重厚な外観です。
設計者 / 佐野利器、神奈川県、小尾嘉郎 ( コンペ案 )
建築年 / 1928年 ( 昭和3年 )
所在地 / 神奈川県横浜市中区本町1-6
この建物も小尾嘉郎のコンペ当選案を、当時日本建築界の重鎮だった佐野利器が軍国主義・国粋主義などの時世の流れに乗って帝冠様式で実現したものです。
建物全体のデザインが武骨なのは、佐野利器の専門が意匠ではなく、耐震構造の先駆者であり、震災直後に建設されたことからも、構造重視は仕方ない事かもしれません。
そう言えば放映中のテレビドラマ「検事と刑事」でも、ロケ地になってますね。

横浜地方簡易裁判所 ( 旧横浜地方裁判所 )
1階中央の車寄せの部分はルスティカ積。
2・3階はスクラッチタイル貼りのレトロな雰囲気を漂わすデザインではありますが、ジャックやキングのようなクラシカルなデザインではなく、コーナーに丸みを付けた表現主義的な要素のあるデザインの建物です。
設計者 / 小野武雄
建築年 / 1929年 ( 昭和4年 )
所在地 / 神奈川県横浜市中区日本大通9

この建物も「検事と刑事」でロケ地になっています。

横浜市情報文化センター ( 旧横浜商工奨励館 )
この建物も震災で壊滅状態となったこの地に、一年足らずの突貫工事で建てられましたが、そのデザインの完成度はなかなかの物です。

設計者 / 山田七五郎 ( 横浜市建築課 )
建築年 / 1929年 ( 昭和4年 )
所在地 / 神奈川県横浜市中区日本大通11

古典様式とアールデコの要素も見られるデザインのこの建物は、昭和初期の横浜を代表する建築と言われています。
- 2020/02/17(月) 19:08:00|
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北烏山のバス通りで、リートフェルトがデザインしたかの様な、素敵なアパートメントを見付けました。

千歳烏山から吉祥寺に向かうバス通り沿いに建つアパートメントで、決して最近建った建物ではないので、今までに何十回もこの建物の前を通っていたにも関わらず、お洒落な館銘板やまるでリートフェルトを思わせる様な色遣いに気が付かなかったとは・・・。


リートフェルトを御存知ない方の為に、代表的な住宅と椅子も紹介します。

シュレイダー邸 と レット&ブルー


この辺りの色使いが「シュレイダー邸」の色使いにそっくりです。

バス通りの反対側も、道路に面した好立地に建つアパートメントでした。
- 2020/02/11(火) 18:18:00|
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今年の1月3日から、東京メトロ銀座線渋谷駅が新しくなりました。

「未来感を表現した」と言う、特徴的なM形フレームの全貌は明らかになったものの、ホームドアはオリンピックの開催までに、オリンピック後はに屋上に「スカイデッキ」の工事をが始まり、最終的な完成は27年度頃の予定とか。
未完成の今の段階で、評価を下すのは間違いでしょうが、井の頭線を利用している私には、乗り換えが遠回りになるだけででなく、今のところは乗り降りの動線が重なってしまうので、とても不便になったと感じてしまいます。

設計者 / 東京メトロ
設計協力 / 内藤廣建築設計事務所、東急設計コンサルタント
建築年 / 2020年
渋谷周辺はどんどん新しく綺麗にはなっていますが、東急電鉄の渋谷駅は完成してから数年経っているにも関わらず、未だに慣れずに、ちょっと油断すると自分が今何処に居るのか分からなくなってしまいます。( 年齢の為でしょうかね。)
そのうえ銀座線迄使い難くなってしまっては困るので、完成時には分かり易く便利になることを祈るばかりです。
- 2020/01/27(月) 15:58:00|
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大天守の見学を終え、出口へと向かいます。

出口へ向かうには、先ず1階に降りて、武者走りの北東に在る「イの渡櫓への扉」から階段を下ります。

出口までの通路には瓦などの展示が多数ありましたが、残念ながら今回はじっくり見る時間が無いのでスルーします。

この通路が何処かと言うと、恐らく「大天守」1階から
「イの渡櫓」⇒「東小天守」⇒「塩櫓」を反時計回りに歩き、入り口と同じ辺りから外に出たと思います。

この部屋で靴を履きました。

「水の山門」辺りからの見上げ、左が「乾小天守」中央が「西小天守」、その後ろに「大天守」

「西小天守」、その後ろに「大天守」

姫路城は遠目で見た姿が美しいですが、間近から見上げた姿も迫力があります。
ここらで姫路市のホームページ内にある「世界遺産姫路城」の中の年表から、姫路城の変遷を簡単にピックアップしてみます。
1333年 姫山に初めて砦を築いたのは赤松則村
1346年 赤松貞範が姫山に本格的な城を築城
1441年 赤松満祐父子が自害し、山名持豊が姫路城を治る
1467年 赤松政則が領国を回復し本丸、鶴見丸を築き、その後、
小寺氏、その重臣の黒田氏が城をあずかる
1580年 羽柴秀吉の中国攻めの為、黒田孝高が城を秀吉に献上
1581年 秀吉が3層の天守閣を築く
1600年 関ヶ原の戦いの後、池田輝政が城主となる
1601年 城の大改築を開始し、1609年に完成
1617年 本多忠政が城主にとなり、三の丸、西の丸、その他を増築
1869年 明治維新により、姫路城は国有に
1931年 天守閣が国宝に指定される
1951年 戦後、新国宝に指定される
1956年~1964年 「昭和の大修理」
1993年 ユネスコの世界文化遺産に登録される
2009年~2015年 「平成の修理」
この年表を見る限り、1601年から1609年に掛けて、当時に城主だった池田輝政によって行われた大改修工事によって、現在もみられる姫路城の大部分が出来上がっていたと言えそうです。
地名としての「姫路」という呼び方は、江戸時代初期、池田輝政が姫路城を築き、城下町を整備した当時の文献に見られるそうです。

備前丸から「西小天守」と「大天守」を見る。

「大天守」



南東角から見上げ

「石落とし」

「大天守」南東角の石垣


「備前門」を潜ったところ
左端に写っているのは「井郭櫓」

この辺りは瓦を止める漆喰がまだ真新しくて真っ白です。

右は「帯の櫓」



洗い出しと瓦を埋め込んだ舗装に遊び心が伺えます。

「切腹丸」前の石垣

「切腹丸」側の漆喰壁に空いた鉄砲穴から城下を望む

「リの門」を抜けて「リの門」と「太鼓櫓」を見返す
手前の井戸は「お菊の井戸」

「リの一渡櫓」は明治・昭和・平成の鯱が展示されています




「ぬの門」

「ぬの門」を潜り、門を見返す


「ぬの門」の門扉

「ぬの門」前の石垣

「るの門」続きの漆喰塀

「二の丸」跡

「ろの門」

「いの門」

「菱の門」
とうとう有料エリアの入り口の「菱の門」に戻って来ました。

「三国堀」越しに「天守」を見る
名残惜しいので、直ぐには外に出ずに、更に撮影


きりが無いので、ここらで門を出ます
「菱の門」を出ました


この写真で天守の写真も終わりにします
おまけ

姫路城の猫達

あとはお土産を物色しながら、ぶらぶらと駅へ向かいました

JR姫路駅
この建物の2階に上がると大手前通りの先に、姫路城の天守が望めます
- 2020/01/13(月) 12:34:00|
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大天守の4階です。

3階より下階、特に直下の3階の天井高が2層分ありそうな高さだったので、4階は少し低めです。

部屋の構成は東西の大柱を中心としたワンルーム空間で、この階より上階は「内陣」を囲む「武者走り」がなくなります。

4角には「千鳥破風(開き窓)」(北西角)が在り

(南東角)


「石打棚」
4角以外の外壁部には、窓の位置が高い為か「石打棚」が設置されています。


5階に上る階段の横に見えるのが「東大柱」で奥が「西大柱」
この階段を登って5階へ上がります。

「大広間」
大天守5階に上がって来ました。
6階への階段の横に在るのが「西大柱」

「大広間」は70畳程あるのですが、窓が四方にの破風の下に空いた2個づつの小窓だけなので、薄暗い空間になっています。
「大広間」四隅には「入室(いりむろ)」と言う小室が設けられています。

中央やや左が「西大柱」右端が「東大柱」。
地下から伸びる東・西の大柱はこの階迄で、6階床の大梁を支えて終わります。
東西に渡された大梁は。魚の背骨の様に見えます。
さあ、いよいよ「大天守」最上階の6階です。

「内陣」
最上階の「内陣」書院造りとなっており、天井も張られているので、5階までの荒々しさとはガラリと変わって落ち着いた雰囲気があります。


以前に行った「犬山城」や「松山城」もそうでしたが、天守閣の最上階には、部屋の周りをぐるりとバルコニーのような廻り縁(まわりえん)が在るのが普通なのですが、この姫路城では廻り縁が室内に取り込まれています。

最上階にだけは「銅製六葉金鍍金の隠し釘」が使用されているそうです。
- 2020/01/04(土) 07:00:00|
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北側「武者走り」
1階からの階段を上がって直ぐの内陣側の壁には「武具掛け」が並びます。
「武具掛け」とは槍や鉄砲を掛ける為の木製の突起。

西側「武者走り」 北西の角辺りから西側「武者走り」を撮る。
階段を上がり反時計回りに「武者走り」を歩いて行きます。

「開き窓の千鳥破風」
この窓からは屋根づたいに「西小天守」に渡ることが出来るらしい。

南側「内陣」「武者走り」
千鳥破風の前 ( 南西の角 ) から南側「内陣」と「武者走り」を見る。

南側「武者走り」天井。 上階の床組みを見る。

南東角辺りの天井。

「西大柱」


東側から南側「内陣」を見る。

北東角の「内陣」
この部屋の壁にも「武具掛け」が並びます。
鴨居の上部には棚も設置されており、武具庫でもあるらとか。


北東の角辺り
鴨居と天上の間の横桟に設けられている突起は「用具掛け」と呼ばれるもので、弾丸を入れた袋を掛けるための物です。

左の長い突起は竹製で、右のL字の突起は金属製です。

北側「武者走り」
北東の角から南側北側「内陣」と「武者走り」を見る。
「武者走り」の奥に1階から2階に登った階段が見えます。
北西角の「内陣」
この階段を登って3階へ。
ここから3階です。

3階はかなり天井が高く感じられます。
左端の柱は「西大柱」、その直ぐ右隣は上階への階段。
中央やや右の柱は「東大柱」です。

「東大柱」


左に写っているのは南側「石打棚」
「石内棚」は窓から外を攻撃する為の物。
階段を上がった高くなった部分は、その部分に唐破風がある為だと思われます。

南東角の天井を見上げる。


右下の漆喰壁は、南西角の「武者隠し」

4階への階段

階段を上った踊り場から3階を見下ろす。
残念ながら年内に「姫路城」の紹介を終わらすことが出来ませんでした。
今年は6月から11月まで、仕事が多忙でプログを更新をする余裕がありませんでした。
来年はなるべくむらなく更新出来るようにしたいと思っています。
来年もよろしくお願いいたします。
- 2019/12/31(火) 11:27:00|
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城の階数は、石垣の上から階数を数えるので、先ずは地下1階に入ります。

石垣のレベルなので当然窓はなく薄暗かったので、いきなりピンボケです。
この写真の左下に写っているのは「流し」。
天守内にこのような施設があるのは珍しいらしいです。

地階は東西の大柱を中心に、6つの部屋で構成されています。
地階の在る城では、通常地下は倉庫等に使用される事が殆どですが、姫路城では「流し台」や「厠」が設置されています。

暗くて写真が旨く撮れないうえに、そろそろ辺りが薄暗くなって来たので、ちょっと急ぎ始めていたので、地下1階の見学はそこそこにして地上階に上がります。

階段を上がったところ (「武者走り」南東の角 ) から振り返って「二の櫓」側の「武者走り」を見る。
左に見える扉は「二の櫓」への扉。

「武者走り」
南東の角から「内陣」南側の「武者走り」を撮る。

西側の窓から「西小天守」へ続く屋根瓦を見る。
左下に見えるのは「水の三門」。

「内陣」南側
1階も地階と同様に、内陣は構造的には東西の大柱を中心に、6分割されていますが、内陣南側の3室には仕切りが無く、1室の大広間となっています。

「東の大柱」
地階から5階まで貫く大柱ですが、昭和の大改修の際に下部を取替え二本継となり、この階で境目があります。

この写真では「西の大柱」と「東の大柱」が分かります。

「内陣」と「武者走り」の間の敷居。
流石にバリアフリーとは行かないようです。

「武者走り」
南東の角から「内陣」南側の「武者走り」を撮る。
「武者走り」はぐるりと一周「内陣」を取り囲んで配置されています。
床梁の下に添えられた肘木は、特徴的で目を引きますが、大きく張り出した庇を支える為の物です。

「武者走り」コーナー部の床組み。


北東の角から「との一門」を見る。

「武者走り」北東の角から「イの渡櫓」への扉を見る。

北側の「武者走り」
北側「内陣」 ( 左 ) 側の壁には、槍か鉄砲を掛ける木製の「武具掛け」が並んでいます。


北西の角から、北側の「武者走り」を見る。

2階への階段を上ります。
- 2019/12/30(月) 01:18:00|
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「化粧櫓」のを出たところから見た天守。

左に写っているは「化粧櫓」前庭の鉄砲穴の開いていた塀と石垣。

左が「にの門」の上の櫓。 その下に重なるように「はの門」。

「大天守」の向かって左が「乾小天守」。
「大天守」の下に重なるよう写っているのが「西小天守」。

「ろの門」と「はの門」中間辺りから天守を見る。 左下の塀は

「はの門」へ登ってゆく坂道の塀。
このアングルはポースターや色々な時代劇のロケ地としてよく使われています。

△や□の鉄砲穴が等間隔で並んでいます。


「はの門」を潜って「にの門」を見上げる。

ここにも石落としが設置されています。

「にの門」へ続く坂道の塀。
この塀にも沢山の鉄砲穴が設けられています。
敵が「大天守」に達するには、幾重にも設けられた塀の鉄砲穴からの射撃をかい潜りジグザクの坂道を登って行かなければならない訳です。

「はの門」と「にの門」の間の坂道の中間の折り返し地点。
微妙に角度を変えながら、幾重にも重なりあう軒の出が面白い。

右端に移っているのは、多分「西小天守」だと思います。

折り返し地点辺りから「にの門」を見る。
この辺りから、通路が急に狭くなっています。

「にの門」

「にの門」の櫓下。
狭いうえに天井高も低く、洞窟の様で圧迫感もあり、出口も見通せないので攻め入る敵に恐怖心を与えるような設計です。


洞窟を抜けると、今度は坂道は無く、直ぐに次の「ほの門」が在ります。
後ろは「乾小天守」で大天守はほとんど見えません。
見上げる位置によって、見える天守が異なるので、攻め入る敵は戸惑うかもしれませんが、観光で来ている我々には、どこから見ても表情が何とも楽しく飽きることがありません。

「ほの門」越しに「乾小天守」を見上げる。
やっとの思いでこの門を突破したとしても、石落としが待ってると言うわけです。

「ほの門」
門を潜って階段を上がった場所からの見返し。

「ほの門」を入ったところ。
左が次の「水の一門」、右が「油壁」、写真に写っていない更に右が「ほの門」です。
「ほの門」から「水の一門」までは、「油壁」を折り返すだけです。

「水の一門」を潜ると、直ぐに「水の二門」
天守に近付くにつれて、門の間隔がどんどん短くなって来ます。

「水の二門」の前から「乾小天守」を見上げる。

「水の三門」
「水の二門」を潜って「水の三門」を見る。

「水の三門」の前から、「水の二門」と「乾小天守」方向を見返し。
天守の石垣はかなり高いです。

「水の三門」を潜り門を見返す。

屋根瓦の漆喰は、改修工事直後は真っ白過ぎて違和感がありましたが、数年を経て少しずついい感じに汚れて来ました。

「水の三門」を出ると直ぐに「水の四門」。
「水の四門」の前から「西小天守」「大天守」を見上げる。
を見上げる。


次回はいよいよ天守に入ります。
- 2019/12/29(日) 12:06:00|
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姫路城の見学コースは、「菱の門」から直接天守に向かうコースと、先ずは「西の丸」を見学するコースがあるのですが、ここでは迷わず「西の丸」へ向かいました。



「西の丸」
たぶん「ワの櫓」だと思います。
「ヲの櫓」⇒「ルの櫓」方面に歩いて行きます。

「ヲの櫓」

記憶が定かではありませんが、ここで階段を上がって床レベルが変わったと思います。

「ヲの櫓」2階?
大迫力の太い小屋梁ですが、想像と違って小屋組みの木材はとても綺麗です。


くの字型に曲がる廊下
「ヲの櫓」~「ルの櫓」との間の辺り?
改修工事の直後だからだとは思いますが、漆喰壁は真っ白です。

たぶんこの辺りも含めて「百間廊下」と言うのだと思います。
「西の丸」は長い廊下のような平面なので、実際に長い廊下も多くなります。

恐らく「ルの櫓」
如何にもお城らしい急勾配の階段は、年季が入っているのが分かります。

「西の丸」の窓から「大天守」「小天守」を見る

この角度も、なかなか絵になるアングルです。

恐らく「ルの櫓」
クロスする丸太の小屋梁


「百間廊下」

見るからに重厚な扉です。
普段開け閉めする為の扉ではなく、万が一敵に攻め込まれた時に閉じる為の扉ではないでしょうか?

.

.

「ヌの櫓」

恐らく「化粧櫓」の入り口辺りの小屋組み

.

窓の他に、色々な高さに鉄砲穴があります。奥に見えるのは石落とし。

「化粧櫓」前の前庭のようなところ
△□○形の穴は鉄砲穴

鉄砲穴を内部から見るとこんな感じ。
この鉄砲穴は「ワの櫓」辺りのもの

これは「石落としを内部から見たところ
石垣を登ってくる敵兵めがけて、出窓のように突き出した床を開いて、石を落として撃退する為のもの。時には糞尿を落とすことさえあるそうです。
どうして写真を撮らなかったのか記憶にないのですが「化粧櫓」の内部の写真がありません。

「化粧櫓」を出たところから「ヌの櫓」を見る。

左が「ヌの櫓」 右が「化粧櫓」
- 2019/12/27(金) 19:01:00|
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JR姫路駅を降り立つと、大手前通りの彼方に美しい白い姫路城が見えています。

望遠レンズで撮った画像を、更に切り抜いたので近くに見えますが、姫路駅から大手門までは約1キロの距離があります。

大手前通りと、平行している駅東大路との間をウロウロして、名物の姫路おでんを店を探して昼食をとり、少しずつお城に近付きます。

名物の姫路おでん

やっとお堀の前に辿り着きました。

堀の石垣も壮観です。時間があれば、お堀の周りを一周したいところですが、当然時間がありません。

早速大手門から城内へ



石垣の上に聳え立つ、大天守と小天守が徐々に近付いて来ます。
とは言っても、まだ「三の丸広場」越しなので、まだかなりの距離があります。
左に見えるのは「西の丸」、中央辺りが「菱の門」、そこから右に向かって「るの丸」、「リの一渡櫓」「西小天守」「大天守」と続きます。
先ずは「菱の門」へ向かいます。


左から「乾小天守」「西小天守」「大天守」、その下が「リの一渡櫓」

「西の丸」の一角

「菱の門」

「菱の門」を潜ると天守の足元の石垣の全景が見えて来ます。
下の石垣は「三国堀」

左から「乾小天守」「西小天守」「大天守」

「リの一渡櫓」。竹垣と石垣の間が「三国堀」

「西の丸」から見た小・大天守

次回は「西の丸」内部を紹介します。
- 2019/12/26(木) 11:02:00|
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今回が神戸散策の最終回になります。
神戸市立博物館を過ぎ、再び国道2号に出ると直ぐに見えて来るのが
チャータードビル ( 旧チャータード銀行神戸支店 )
設計者 / J・H・モーガン
建築年 / 1938年 ( 昭和13年 )
所在地 / 兵庫県神戸市中央区海岸通9
この建物にも大丸神戸支店と同様に、イオニア式のオーダー柱が施されていますが、奇数と言うのは珍しいと思います。
ペディメントの施された出入口は、この建物では両サイドに設けられています。
「内部は、装飾が施された折れ天井に、全面に大理石貼りがなされた広大な吹き抜け空間が配されているなど、英国の銀行らしい豪壮な造作になっている。」(Wikipedia)そうです。
隣には

神港ビル
設計者 / 木下益次郎
建築年 / 1939年 ( 昭和14年 )
所在地 / 兵庫県神戸市中央区海岸通8
川崎汽船本社ビルとして竣工して依頼、現在でも川崎汽船の登記上の本店所在地で、現役の賃貸オフィスビルとして利用されています。

アールデコ風の装飾が施された塔屋は、周りに高層ビルが立ち並んだ現在でも、ひと際目を引く存在です。ライトアップも行われているようです。
この後、時間次第で神戸税関、新港貿易会館、農林水産消費安全技術センターなども見学したいと思っていましたが、そろそろ姫路に向かう時間に近付いて来たので、諦めて荷物を取りに宿泊したホテルに向かうことにしました。
神戸市立博物館の前を通って三ノ宮駅方向へ

朝日会館 ( 旧神戸証券取引所 )
設計者 / 渡辺節
建築年 / 1934年 ( 昭和9年 )
所在地 / 兵庫県神戸市中央区浪花町60

後方に見えるガラス張りの高層棟のデザインとあまりにもマッチしているので、全て新しいビルに見えますが、扇型の低層部は昭和9年に渡辺節の設計で建てられた旧神戸証券取引所を、1994年に低層部のファサードを残して改修したものです。
神戸散策の最後は

宿泊していたホテルの隣に在った神社へ寄ってみました。
生田神社
なかなかに立派な神社です。
生田神社は廣田神社、長田神社とともに神功皇后以来の歴史を有する神社で、神戸を代表する神社の一つです。

楼門

拝殿
昭和13年の神戸大水害、昭和20年の神戸大空襲、平成7年の阪神・淡路大震災など何度も被害にあいましたが、そのつど復興されてきたことから、「蘇る神」としての崇敬も受けるようになっているそうです。
この後ホテルへ荷物を受け取りに行き、姫路へ向かいます。
- 2019/12/23(月) 08:00:00|
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神戸散策の半年振りの再開です。
神戸に行ったのは去年の秋でしたので、今更感は否めませんが、何とか年内に間に合わせたいと思います。
メリケンパークの見学を終え、メリケンロードを元町駅方向へ数分進み、三菱UFJ信託銀行の在るT字路を右折します。

大丸神戸店 ( 旧液体空気日本支店 )
大正期に建てられた建物のファサードを残し、大丸神戸店本店として利用しているようです。

設計者 / 不詳
建築年 / 1926年 ( 大正15年 )
所在地 / 兵庫県神戸市中央区明石町40
大丸神戸店の隣にも

HERMES ( 旧居留地38番館 )
宅急便のトラックがどくのを暫く待ちましたが、時間が無いので仕方ありません。
設計者 / ウィリアム・メレル・ヴォーリス
建築年 / 1929年 ( 昭和4年 )
所在地 / 兵庫県神戸市中央区明石町40
ペディメントの施された仲町線に面したファサードは、ほぼ正円に近い程に奥行きのある4本のイオニア式オーダーの円柱が並びます。

ヴォーリズの設計で1929年にアメリカン・ルネッサンス様式を採用し、シティバンク神戸支店として建てられました。

3階はとって付けたようにも見えるますね。
次は仲町線を東へ進み、京町線を右折します。
またもや古典様式のオーダー柱が並ぶ建物が見えてきました。

神戸市立博物館 ( 旧横浜正金銀行神戸支店 )
設計者 / 桜井小太郎 ( 英国王立建築家協会会員 )
建築年 / 1935年 ( 昭和5年 )
所在地 / 兵庫県神戸市中央区京町24
登録有形文化財

京町線に面する建物正面には6本の列柱には、ドリス式オーダーが施されています。
この建物の柱も、付け柱としてかなり奥行きがあります。

緑青の出た庇も重厚感と同時に趣があります。

内部は博物館として改修されていますが,旧銀行業務室は2層吹き抜けで、現在も大ホールとして保存されているらしいので、時間があればぜひ見学したいところでした。

- 2019/12/22(日) 16:31:00|
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旧古河庭園の日本庭園は、きっと今頃はモミジが紅く色付いている頃だとは思いますが、今日紹介する画像は「秋のバラフェスティバル」(10月20日)に撮影したものなので、モミジの葉も緑々としていますので悪しからず。

洋館の前に広がるバラの咲く西洋庭園を通り抜けて階段を降りると

洋から和へと風景は一変します。



心字池
日本庭園の中心には優雅な心字型に曲線を描く心字池が在ります。
心字池の周りには雪見灯篭、大滝、枯滝などが美しく配置されていて心を和ませてくれます。
明治・大正期の庭師、植治の作として知られています。

写真中央の池の畔に植わっているのはモミジです。


雪見灯篭

枯滝

茶室
庭園全体から見ても、東側に在る茶室。
茶室の周りにもモミジ植えられているので、今頃はさぞや紅葉が綺麗なのではないかと思います。
- 2019/12/02(月) 10:12:00|
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先月(10月)20日に旧古河邸庭園で開催される「秋のバラフェスティバル」に行って来ました。
旧古河邸を訪れたのは二回目で、以前に来たのは10年前の雨の降る日でした。
以前の記事は ⇒ 《 こちら 》

以前の写真は雨の日の物でしたので、やはり洋館には青空が似合う気がします。
この場所は明治期の外務大臣、陸奥宗光の邸宅があった場所で、宗光の次男潤吉が古河家に養子に入ったことで古河家の所有となりました。
本館建物と西洋庭園はジョサイア・コンドルの設計で、大正6年5月に竣工しました。
設計者 / ジョサイア・コンドル
建築年 / 1917年 ( 大正6年 )
所在地 / 東京都北区西ヶ原1-27-39

庭園側から見たは外観はシンメトリーに近い立面。
向かって左側には洋館に良くみられるベイウィンドゥが見られます。


この洋館の一番の特徴は、なんと言っても荒々しく重厚な黒い外壁でしょう。
建物全体を覆うこの石材は真鶴産の本小松石(安山岩)。
但し、構造は組積造ではなく煉瓦造の躯体に野面積みしたものです。


切妻屋根は天然スレート葺きですが、出窓や玄関ポーチ屋根は銅板瓦棒葺き。

石積みの重厚な外観はスコットランドの建築や英国の別荘建築に近いそうです。
(スコティッシュ・バロニアル様式)


今回も残念ながら、内部の見学はお預けです。
- 2019/11/10(日) 10:33:00|
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7月に最後にこのブログをUPをして以来、仕事の多忙の若干の体調不良で更新をサボっているうち、再架すする機会を無くしていましたが、このままでは長年続けてきたこのブログが消滅しかねないので、今日からまた再開させて頂きます。
昨日は雨が降るとの予報でしたが、「降り出すのは夜から」と予報が変わっていたので、用事出掛けたついでに両国~森下近辺を散策して来ました。

江戸東京博物館に来たのは子供達が小学生の頃に連れて来た以来なので、恐らく20年振りくらいにはなる筈です。

正直に言って、武骨すぎる外観はあまり好きではありませんが、久し振りに入館してみても、展示は内容は同じでも、館内は綺麗で古びた感じはなく、充分に楽しむことが出来ました。


両国国技館と旧安田庭園の通りには、何軒かの出し桁造りの店舗併用住宅が残っていました。

運河の上に造られた首都高速7号小松川線を潜って森下へ


都道463号線沿いに面白いデザインのレトロな理髪店を発見
ここからはポンコツ通り沿いで見つけたレトロな建物





どちらも元は店舗併用住宅だったと思われる建物です。
森川駅近くの新大橋通りには立派な銅板張りの老舗店舗にも出会えました。

深川みの家

深川みの家は明治30年創業の馬肉料理の専門店。
公式HPには「現在の木造の建物は昭和29年に建てられたもので、当時は炭を使っていたことから天井が高く風通しの良いつくりになっております。
また、木場で働く常連さんが多かったことから、値踏みされぬよう全国から銘木を集め、贅沢なつくりになっており、度重なる修繕の際にも、それらの材料は再び元の場所で使用され、建築当時の姿のまま現在に至っております。」と記されています。
この建物が昭和29年に建てられた物とはかなり意外で、大正末期から昭和初期の震災から太平洋戦争以前k
もっと古い建物だと思いました。間違いじゃないのかな?


最後は森川近くで見掛けた💛マークのマンションです。



よく見ると💛マークだけでなく、屋根まで派手派手でした。

- 2019/11/04(月) 17:28:00|
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国道2号線をメリケン波止場前交差点まで戻って、フランク・O・ゲーリーがデザインした、フィッシュ・ダンスへ向かいます。

1987年にフランク・O・ゲーリーの設計で建てられた、巨大な魚のモニュメントとスパイラル状のレストラン。
建設当時はポストモダンの全盛期。「ポストモダンは歴史的形態の引用ゲームに終始しており、建築本来のオリジナリティーがない、建築はもっと個人に根差した自由なものであって良い。」と主張したフランク・O・ゲーリーの日本でのデビュー作。

設計者 / フランク・O・ゲーリー、竹中工務店
建築年 / 1987年
所在地 / 神戸市中央区波止場町2-8

当時はかなり話題になったと記憶していますが、今ではすっかり錆と苔に蝕まれ、足を止めて眺めているのは私くらいでした。
ついでなので、メリケン広場をもう少し海に向かって歩いてみます。

神戸海洋博物館 神戸ポートタワー
神戸ポートタワー
設計者 / 伊藤紘一
建築年 / 1963年 ( 昭和38年 )
所在地 / 兵庫県神戸市中央区波止場町5-5
国登録有形文化財
神戸海洋博物館
設計者 / 神戸市港湾局技術部,神戸港振興協会
建築年 / 1987年
所在地 / 兵庫県神戸市中央区波止場町2-2
神戸海洋博物館は神戸港開港120年を記念して1987年に開館しました。
波または帆船の帆をイメージさせる独特な外観の屋上構造物は白色のフレームでできており、神戸ポートタワーの赤色との対比が美しいと言われています。
天気が良ければ白いスペースフレームが青空に映えていたと思うのですが、生憎の曇天だったことが残念です。

神戸メリケンパークオリエンタルホテル
設計者 / 竹中工務店
建築年 / 1995年
所在地 / 兵庫県神戸市中央区波止場町5-6
波をイメージした外観のデザインが特徴で、神戸港の夜景を飾っているとか。
- 2019/07/02(火) 14:30:00|
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乙仲通沿いの2棟の小振りな洋風建築を見学した後、大型洋風建築の並ぶ国道2号線に出ました。

海岸ビルディング ( 日濠会館 )
国道2号線に出ると、いきなり深い装飾の施された洋風洋式建築が見えて来ました。

全体の雰囲気は洋風洋式建築に見えましたが、個々の装飾は幾何学的なデザインです。

設計者 / 河合浩蔵
建築年 / 1911年 ( 明治44年 )
所在地 / 兵庫県神戸市中央区海岸通3-1-5
建物前の歩道からでは、距離が近過ぎてこのような写真しか撮影できないので、前面道路は国道なのでかなり離れた歩道橋を渡って国道の反対側へ

「近代建築散歩-京都・大阪・神戸編」には「全体はゼセッション風だが・・・」と書かれていますが、1階のルスティカ積の外壁やこ角部の石積み風の付け柱のデザインからは、やはり洋風洋式建築のイメージの方が強いような気がします。

明治期に建てられた民間の建物が、この状態の良さで残っているのは貴重なのではないでしょうか。
国道2号線を東に目を向けるとレトロな洋風建築が並んでいます。

神戸郵船ビル、海岸ビル、商船三井ビルディング

神戸郵船ビル ( 旧日本郵船神戸支店 )
「近代建築散歩-京都・大阪・神戸編」には「かつては正面上部にバロックドームが載っていたが、戦火で焼失した・・・」と書かれていますが、ドームがなくても、今も堂々たる風格です。
設計者 / 曽禰・中條建築事務所
建築年 / 1918年 ( 大正7年 )
所在地 / 兵庫県神戸市中央区海岸通1-1-1

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国道2号線側の側壁中央辺りの出入口

海岸ビル、商船三井ビルディング

海岸ビル ( 旧三井物産神戸支店 )
設計者 / 河合浩蔵
建築年 / 1918年 ( 大正7年 )
所在地 / 兵庫県神戸市中央区海岸通3
神戸市景観形成重要建築
この建物も河合浩蔵氏の設計です。

この建物も全体の印象は洋風洋式建築ように見えますが、細部個々のデザインは、古典様式建築の細部を幾何学的にデザインしています。

3階・4階には軒蛇腹が施され、中央最上部の唐破風からは東洋風の印象も受け取れます。

商船三井ビルディング ( 旧大阪商船神戸支店 )
設計者 / 渡辺節
建築年 / 1922年 ( 大正11年 )
所在地 / 兵庫県神戸市中央区海岸通5
この建物も角地であることを、最大限に活かしたデザインのオフィスビル。
この建物を最初に見た時はデパートなどの百貨店かと思いましたが、「近代建築散歩-京都・大阪・神戸編」には「ルネサンスをベースにしながら、シカゴ派の影響を感じさせるアメリカン・スタイルのオフィスビル。」と記されています。
渡辺節と言えば、''昭和の巨匠''村野藤吾氏が主従した建築家としても知られています。

何と言っても玄関上部の半円形の装飾が目を引きく建物です。
- 2019/06/23(日) 12:24:00|
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元町駅北側のエリアには、河合浩蔵氏設計の神戸市立水の科学博物館や本願寺神戸別院など、見たみたい建物が残っていましたが、時間の関係で諦め、神戸高速鉄道東西線の花隅駅辺りで鉄道の高架橋を潜り、マリンロードを通って海側のエリアに移動しました。
鉄道北側のエリアでまず最初に見えて来たのは、マリンロードと栄通の交差点に建つ

神戸市都市交通みなと元町駅 ( 旧第一銀行神戸支店 )
現在は道路に面する1スパンノミが保存されて、みなと元町駅の出入口として利用されています。

1スパンノミのファサード保存に近い利用のされ方とは言え、赤煉瓦と白い花崗岩のコントラストは、辰野式の真骨頂と言える風格で、堂々たるデザインの銀行建築です。

角地であることを、最大限生かしたデザイン。
2階部分は白で縁取られた半円アーチ窓で、1階はペディメントの施された開口が、リズミカルに並んでいます。
設計者 / 辰野金吾
建築年 / 1908年 ( 明治41年 ) -旧建物
所在地 / 兵庫県神戸市中央区栄町通4-4

角部のエントランスには、ドリス式風オーナー柱に支えられた、一際大きなペディメントが施されています。

エントランス側面

栄通り側のファサード

向かって右端の出入口にはキーストーンが施された白花崗岩の半円アーチの出入口が在ります。
数分栄通りを少しだけ元町駅方向に歩くと

毎日新聞神戸ビル ( 旧横浜火災海上保険神戸支店 )
設計者 / 河合浩蔵
建築年 / 1925年 ( 大正14年 ) -旧建物
所在地 / 兵庫県神戸市中央区栄町通4-3
河合浩蔵氏の最後の作品を一部分だけ記念碑的に保存したそうですが、「近代建築散歩」に載っていたので分かったものの、予備知識が無ければ、間違いなく通り過ぎていたと思います。
もう少し何とかならなかったのでしょうか?
栄通を離れ、並行する国道2号線との間の乙仲通へ

monostandard
洋風建築と言うよりも、看板建築と言うそうな建物ですが、事前ストリートビューで付近を調べた際見付まし。

間口と比べて奥行はかなりある建物です。
設計者 / 不詳
建築年 / 不詳
所在地 / 兵庫県神戸市中央区栄通3-2-6

同じ乙仲通の数軒並びにもう一棟

KISCO株式会社神戸支店( 旧岸本産業本社 )
この建物もかなり奥行があります。
設計者 / 不詳
建築年 / 大正末or昭和初期
所在地 / 兵庫県神戸市中央区栄通

階段状にセットバックしたプランと、パラペットに10cm巾程度に細かく刻まれた横ボーダーが特徴的、1階越部のルスティカ積の外壁も目を引きます。
- 2019/06/14(金) 18:42:00|
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今回は教会の多い神戸の街で、兵庫県庁近辺に在る、三棟の教会を紹介します。
先ず初めに紹介するこの教会は兵庫県公館と兵庫県庁舎の間に在ります。

日本キリスト教団神戸栄光教会
1886年、アメリカの南メソジスト監督教会から宣教師として派遣されたW.R.ランバス師により「神戸美以教会」は創設されます。
創設当初は、旧居留地47番地を拠点としていましたが、1887年に現在のJR元町駅の北側に移り、1888年第1会堂が、現在の兵庫県庁東南角に建てられます。
1907年、日本におけるメソジスト三派が合同したことにより「日本メソジスト神戸教会」となり、1942年に現在の名称である「日本キリスト教団 神戸栄光教会」となりました。建物は1922年に、現地に第2会堂が建てられ、長年にわたり多くの方々に「赤レンガの教会」として親しまれましたが、1995年の兵庫県南部大地震で全壊してしまいます。
2004年に再建された第4会堂は、ゴシック様式の外観を踏襲し、外観の煉瓦は手摘みで施工されています。

大隈講堂の様な王冠をお思わせるデザインの鐘塔が印象的です。
設計者 / 曽禰・中條建築事務所 再建設計者 / 日建設計
建築年 / 1922年 ( 大正11年 ) 再建年 / 2004年 ( 平成16年 )
所在地 / 兵庫県神戸市中央区下山手通4-16-1
建景観形成重要建築物

再び山手通りに戻ります。

日本聖公会 神戸聖ミカエル教会
1876年、英国聖公会宣教師H.J.フォス師により神戸市中央区鯉川筋に設立された伝道所が前身。
1881年に聖堂の定礎式を行い聖ミカエル教会となりました。
鯉川筋の教会は1891年に焼失し、教会の場所を中山手通6丁目に移しましたが、1945年に空襲により焼失しました。 1959年、現在の場所に建てられた聖ミカエル教会が神戸教区大聖堂となります。 
設計者 / 不詳 建築年 / 1959年 ( 昭和34年 ) 所在地 / 兵庫県神戸市中央区下山手通5-11-1戸市中央区下山手通5-11-1 |

どことなく村野藤吾氏が設計した広島の平和記念聖堂に似た印象の有る鐘塔です。
コンクリートのフレーム ( 柱・梁 ) の間に煉瓦の壁の外壁は、1960年前後に村野さんが設計した横浜市庁舎、早稲田大学文学部校舎、関西大学も見られます。


日本キリスト教団神戸教会
1874年 ( 明治7年 ) に、現在の神戸市中央区元町5丁目にて設立された摂津第一公会を起源とする、日本最古級のプロテスタント教会です。

設計者 / 原科建築事務所
建築年 / 1932年 ( 昭和7年 )
所在地 / 兵庫県神戸市中央区花隈町9-16
今回紹介する三つ目のこの教会が、スクラッチタイル張りの外壁に高い尖塔が聳える、最もオーソドックスな西洋様式の教会です。

鐘塔にはロンバルディア帯や二連の半円アーチ窓が見られます。
この建物もゴシック風かと感じていましたが、ロマネスク風なのかも知れません。

正面切り妻の破風にもロンバルディア帯か施され、エントランスの尖りの少ない尖頭アーチのとの間に施された、半円アーチと一体化した台形の出窓が特徴的です。

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正面だけでなく、側面にも色々な窓が開けられ、豊かな表情を見せてくれています。

次回は元町駅南側のエリアを紹介します。
- 2019/06/10(月) 17:45:00|
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色々と忙しくしておりまして、久し振りの神戸散策の続きです。
先ずは、宿泊したホテルから山手通りに出て、元町駅方向へ向かうと見えてくるのが

韓国領事館神戸出張所 ( 旧兵庫県信用組合連合会事務所 )
韓国領事館として利用されている為に、警備の為に警察の車両が止まり、警察官の姿も見えるので、ちょっと静止して写真撮影し難い雰囲気でしたので、写真は一枚だけです。
設計者 / 置塩章
建築年 / 1929年 ( 昭和4年 )
所在地 / 兵庫県神戸市中央区中山手通2-21-5
更に、山手通りを数分歩くと

兵庫県庁舎 ( 左奥から 3号館、2号館、1号館 )
設計者 / 光安義光 ( 兵庫県営繕課 )
建築年 / 1号館 ( 1966年 昭和41年 )
2号館 ( 1970年 昭和45年 )、3号館 ( 1990年 平成2年 )
山手通り沿いに建ち並ぶ1~3号館は全て兵庫県営繕課の光安義光氏の設計で、デザインは最初に建設された1号館を踏襲されています。
一旦山手通りを離れ、兵庫県庁舎の裏側 ( 南側 ) へ回ってみます。

兵庫県公館 ( 旧兵庫県庁舎 )
洋館の建ち並ぶ神戸の中でも、一際目を引く堂々としたデザインの建物で、現在は兵庫県公館として利用されていますが、元は兵庫県庁舎として建てられました。

「近代建築散歩-京都・大・神戸編」でも「フランス・ルネサンス様式の近代庁舎建築としてトップレベルの建築」と記されており、竣工時は日本最大級の庁舎建築でした。

設計者 / 山口半六
建築年 / 1902年 ( 明治35年 )
所在地 / 兵庫県神戸市中央区下山手通4-4-1
国登録有形文化財

第二次大戦時の空襲により、外壁以外の全てを焼失してしまいますが、戦後改修工事を行い兵庫県南庁舎として利用されていました。
その後老朽化により取り壊しも検討されますが、1983年から二度めの大改修が行われ、1985年 ( 昭和60年 ) からは兵庫県公館として生まれ変わり、現在も兵庫県の迎賓館として、そして県政資料館として今も兵庫県の顔として重要な役割を担っています。

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- 2019/06/03(月) 10:09:00|
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ゴールデンウィーク初日の昨日、普段は見学出来ない旧三河島汚水処分場喞筒場施設が一般公開されました。
旧三河島汚水処分場喞筒場施設は旧下水処理施設で、大正11年に運転を開始しています。
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設計者 / 東京市技士米元晋一他
建築年 / 1921年
所在地 / 東京都荒川区荒川8-25-1
国指定重要文化財
阻水扉室
施設の正面には、ツインの阻水扉室が在り、間の階段から施設レベルへ下りられます。
上:阻水扉室 下:沈砂池
阻水扉室の地下には扉があり、メンテナンス等の為に、下水の流れ止めることが出来ます。
沈砂池では、下水をゆっくり流して、土砂を沈殿させて取り除きます。
ツインに配置された、煉瓦の小箱の様なこの建物は、デザイン上のポイントにもなっています。
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上:濾格室上屋 下:沈砂池
濾格室上屋
濾格室では、下水中の浮いたゴミを地下のスクリーンで取り除きます。
鉄筋コンクリート造の躯体に煉瓦タイル張りの、どう見ても洋風のデザインにも関わらず、何故か屋根は入母屋風です。
煉瓦の建物 :喞筒室 説明板の下:量水器室
喞筒室内部
メイン施設のこの建物には、下水を地下のポンプ井から吸い上げるポンプが、10台設置されています。
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シンプルなデザインの真鍮製の階段手摺
再び外部
両翼のこの部分は、当時はやりのゼセッション風で格好良いですね。
両翼部以外のデザインはいたって簡素、しいて言えばこの窓上のアーチ位でしょうか?
喞筒室の後ろ側
馬蹄形煉瓦敷の下水管
三河島処理場に流れ込む浅草幹線の一部で、主ポンプ室流入渠改造工事に伴って掘り出されたもので、巾が288cm、高さは183cmあります。
土運車引揚装置用電動機械室
下水から取り除いた土砂やゴミを積んだとロッコを坂の上迄引き上げる機械が設置されていました。
外部照明器具
立面図
- 2019/04/28(日) 16:51:00|
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相楽園の日本庭園は池泉回遊式の日本庭園。
樹齢約500年と伝えられる大クスノキ
飛石や石橋を渡り、流れや滝石組など深山幽谷の景を見ることが出来ます。
池の周りには、風景に溶け込むように、船屋形や茶室浣心亭が配置されています。
船屋形 ( 重要文化財 )
姫路藩主が実際に河川での遊覧に使っていたと言う 川御座船 ( かわござぶね ) を、
屋形部分だけ陸に引き上げたものらしいです。
昭和55年、相楽園に保存のため移築されました。
建造年代は、1682~1704年の間らしいです。
木造2階建、切妻造桧皮葺。
1階2階ともに「床机の間」「上段の間」「次の間」に分かれています。
木部は内外とも全てを春慶塗と黒漆塗に塗分けられ、長押や垂木の先には金箔を施した飾り金具により、華麗で繊細な造りとなっています。
現存する川御座船としては、国内で唯一のものです。
茶室浣心亭
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園内では神戸市菊花展も開催されていました。
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最後にもう一度、正門をの写真を撮って、相楽園を後にします。
- 2019/03/31(日) 18:57:00|
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今回は旧ハッサム邸の2階を紹介します。
1階と同様に、階段室と廊下を中心に、左右に寝室を配したほぼ左右対称なプランニングです。
踊り場
階段を上がった辺りから2階廊下を見る。
奥に見える半円アーチの扉は浴室です。
反対側から
浴室の前から見る。
天井
先ずは左手前の寝室(食堂の上)に入ります。
真下の食堂よりも、日照があってかなり明るいですね。
広角レンズに変えてもう一枚
左がベランダ、正面奥がベイウィンドゥ、右隣は子供室。
左側に見えるのは子供部屋で、右の扉からは階段が見えます。
この寝室の木製の暖炉は、居間と同じデザインです。
天井のレリーフは、食堂のデザインとは若干異なりますが、アイアン製の照明は食堂と同じです。
子供部屋
子供部屋の暖炉も木製の様ですが、居間や隣の寝室の暖炉とは異なるデザインです。
廊下右側の2室の寝室を見ます。
廊下の右、ベランダに面する寝室
居間や子供室隣りと同じ暖炉です。
廊下の左側奥の寝室
浴室
1階のトイレも広かったですが、浴室も広いです。
湯沸し器
神戸の異人館の紹介は旧ハッサム邸が最後ですが、見学したものの中で、この建物が一番見応えの有る異人館だった気がします。
- 2019/03/22(金) 08:00:00|
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テラスの中央の半円アーチの玄関から1階に入ります。
異人館なので、日本の住宅用に靴を脱ぐための土間スペースはありません。
1階のプランは玄関ホールを含んだ廊下兼階段室を中心に、左右に部屋が並んでいます。
壁には濃いオイルステン塗りの腰壁が貼られいます。
階段手摺の親柱のレリーフが見事です。
階段裏の装飾も凝ってますね。
階段の側面も、裏側と同じデザインです。
廊下の奥にはトイレが見えています。
トイレ
広いトイレには腰壁が貼られており、便器は当然洋風です。
トイレから見た階段下物入の扉。
右は配膳室。
トイレの隣の扉から見えるのは、別棟の厨房と使用人室です。
玄関ホールに戻って、左側(南西)の部屋に入ってみましょう。
食堂
左手にはテラスに続く両開きの掃き出し窓。
中央奥の壁はベイウィンドゥ-。 右手は配膳室に続きます。
中央以外の周囲の床は、ヘリンボーン柄に張られているようです。
天井は美しいアイアンの照明器具もさることながら、品よく施された天井の装飾もいい感じです。
暖炉 白大理石でしょうか?
配膳室
ここで玄関ホールに戻ります。
右側(南東)の応接室を見る。
応接室
右手にはテラスに続く両開きの掃き出し窓。
左手は居間と続いてます。
応接室の暖炉のデザインは食堂と同じですが、色は濃い緑の大理石製か?
居間
居間は暗くて良しとしているのか、ダイニングより暗めの照明器具が設置されています。
居間の暖炉は大理石ではなく木製の様に見えます。
次回は2階を紹介します。
- 2019/03/21(木) 09:55:00|
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相楽園には幾つかの建物が在りますが、前回紹介した重要文化財の旧小寺家厩舎の隣に、同じく重要文化財に指定される旧ハッサム邸が在ります。
旧ハッサム邸
英国人貿易商K.ハッサム氏が明治35年に、中央区北野町2丁目の高台( 現ラインの館北側 ) に、自邸として建設したもので、昭和36年に当時の所有者が神戸市に寄贈。
昭和38年に相楽園に移築保存されました。
設計者 / A・N・ハンセル
建築年 / 1902年 ( 明治35年 )
所在地 / 神戸市中央区中山手通5-3-1( 相楽園内 )
国指定重要文化財

ベランダは、1階はアーチを連ねたアーケード式、2階はコロネード式( 列柱式 )となっており、2階ベランダ柱頭部にはアカンサスの葉の飾の付いたコリント式の柱頭飾りが見られます。
今まで見て来た異人館の多くは、ベランダに窓を設けて室内としているので、この建物の様に今もベランダとして使用しているのは珍しいと思います。
ベランダだけでなく、鎧戸の付いた上げ下げ窓の開いたベイウィンドゥ。
1階の窓にはペディメント。
外壁は下見板張り。
屋根には煉瓦積の煙突も見られます。
玄関の前にオブジェの様に置かれた煉瓦の塊がありますが
阪神淡路大震災の時に、屋根と2階の床を突き抜け、1階まで落下したものだそうです。

門扉にも趣を感じます。
ガス灯も明治7年頃に、外国人居留地に街灯用として建てられたものです。
ベランダの照明器具
玄関ポーチの照明
同じデザインの照明の様です。
玄関
次回は邸内を紹介します。
- 2019/03/17(日) 12:29:00|
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今日は国土交通省、経産省、環境省によるZEH等に対する合同の説明会があったので、朝から永田町の砂防会館に行っていました。
砂防会館
説明会の終了後、折角なので近くの旧李王家邸を見て来ました。
旧李王家邸
現在は解体されてしまいましたが、丹下健三氏の設計した赤坂プリンスホテルには、何度か訪れたことはありましたが、何故か旧館と呼ばれていた旧李王家邸は、今までちゃんと見たことはありませんでした。
今回も外観だけの見学になってしまいましたが、レストランになっているようなので、何時か食事がてら見学したいと思います。
朝鮮併合後には日本の皇族に準じた扱いを受けていた李垠の邸宅として造営された、肌色に近い外壁と濃い茶色の木部の対比が美しいチューダー様式を基調としたデザインの建物。
敗戦後は、建物の大部分は参議院議長公邸などとして使用された後、1952年に現在のプリンスホテルが取得し、1955年に赤坂プリンスホテルとして開業していました。
設計者 / 宮内省内匠寮の北村耕造、権藤要吉
建築年 / 1928年 ( 昭和3年 )
所在地 / 千代田区紀尾井町1-2
東京都指定有形文化財
この鹿のオブジェは何なんでしょう?
- 2019/03/05(火) 16:54:00|
- 建物探訪
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生田神社裏の東門街のホテルで一泊し、朝食を済ませた後、早々にチェックアウトして、荷物をホテルに預けて神戸散策に出掛けました。
元町駅まで一駅歩いて相楽園へ向かいます。
開園時間の9時まで、兵庫県庁、兵庫県庁舎、栄光教会等元町駅の北側を散策して時間を調整してから
相楽園 正門
相楽園は、元神戸市長 小寺謙吉氏の先代小寺泰次郎氏の本邸の庭園。
明治18年頃に着手され、明治末期に完成したもので、昭和16年から神戸市の所有となりました。
今日は先ず、旧小寺家厩舎へ
小寺謙吉氏が河合浩蔵氏に設計を依頼し、明治43年頃に建築したL字型の平面を持つ厩舎です。
この厩舎の一番の特徴は、帽子をかぶった様なデザインの円形の塔屋でしょう。
広場に面して北側の1階は、馬車を入れる車庫。
円型の塔屋・急勾配の屋根や屋根窓・豊富な切妻飾りなど、変化に富んだ意匠で飾られています。
設計者 / 河合浩蔵
建築年 / 1910年 ( 明治43年頃 )
所在地 / 兵庫県神戸市中央区中山手通5-3-1
国指定重要文化財
2階は厩務員のための宿舎です。
広場に召して東側は、高い吹抜け天井の6頭の馬用の馬房です。
東京駅の様な、赤い煉瓦と白い御影石のコントラストに加え、木軸を表した重厚なハーフティンバーも、目を引かずにはいられません。
開門前に、相楽園周辺を散策した時に撮影した、裏の北側道路から撮影した写真です。
内部を見学出来ないのは残念ですが、外観だけでも十分見応えの有る建物でした。
- 2019/02/25(月) 08:00:00|
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