ノートル・ダム大聖堂 をあとにし、セーヌ川沿いのオー・フラール通りを アルコル橋 に向かいます。
セーヌ川対岸 ( 右岸 ) に パリ市庁舎 が見えます。
オー・フラール通り沿を背にして、人が一人やっと通れる程の道幅のシャントゥル通りと、ユルサン通りが交わる辺りの建物。
同じ位置からサン・ルイ島を見る。
右岸とサン・ルイ島に架かるのは ルイ・フィリップ橋 を見る。
アルコル橋 からサン・ルイ島を見る。向かって左側に見えるのは、右岸とサン・ルイ島に架かる ルイ・フィリップ橋。向かって右側に見えるのは、サン・ルイ島とシテ島に架かる サン・ルイ橋 です。
アルコル橋 から ノートル・ダム橋 方向を見る。向かって左側の塔は サント・シャペル。中央の ドームは 商業裁判所 。右端が コンシェルジュエリー。
パリ市庁舎
再び パリ市庁舎 の前に戻って来ました。
フランソワ1世は1533年、ヨーロッパ最大の都市にふさわしい市庁舎の建設を目指し、イタリア人建築家 ドミニク・デ・コルトーネ と フランス人建築家 ピエール・シャンビージュ の2人を任命。ルネサンス建築に傾倒していたドミニクの設計により、高く広々とした、光に溢れる市庁舎の建設が始まり、約100年の歳月を掛け、ルイ13世の治世下の1628年に完成します。
その後200年間は、市庁舎に大きな改修は成されていませんでしたが、1835年に エティエンヌ=イポリット・ゴデ と ジャン=バティスト・ルシュール の二人の建築家の設計により、正面ギャラリーに接続する二つの翼棟が建設され、広々とした市庁舎に生まれ変わりました。
しかし、1871年にプロイセンへの降伏を予測した群衆による抗議に端を発した暴動による火災により、石造の部分を残し焼失してしまいました。
市庁舎の再建は1873年から行われ、1892年に完成します。設計者は公開コンペで選ばれた テイオドール・バリュー と エドゥアール・デペルト により行われます。二人の建築家は火災から残った石造りの基礎を利用した上、火災以前のフランス・ルネサンス様式に新しいデザインも取り入れて市庁舎の内部を再建しています。
市庁舎前の広場では、市庁舎が建てられる以前、砂の広場 と呼ばれていた頃から公開処刑場として利用され、絞首刑、ギロチン、火あぶり刑、などが見世物的に行われ、中でも手足を四頭の馬に結びけて四方に走らせる、4つ裂きの刑が最も人気の的だったと言われています。
建物正面は多くの精巧な彫刻で飾られています。
中央の大時計の下には「自由・平等・博愛」文字が刻まれています。
建物中央の扉の前にも
芸術 ローラン・マルケスト作 市庁舎に向かって右側
科学 ジュール・ブランシャール作 市庁舎に向かって左側
建物内部は外観と同様に、宮殿の様な雰囲気を醸し出し、フレスコ画やロダン作の「共和国女神像」も高い芸術性が評価されています。内部を見学出来なかったことは残念です。
ここで、この日も仕事を終えた友人と合流しバスを利用して ギャラリー・ラファイアット へ向かいます。
- 2021/01/14(木) 14:20:00|
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ルーヴル美術館 の見学を終え、次は火災で改修工事中の ノートル・ダム大聖堂 へ向かいます。
パレ・ロワイヤル・ミュゼ・デュ・ルーブル駅からメトロー1号線に乗り、二駅目のシャトレ駅で下車します。時間に余裕が有れば、セーヌ川沿いの道を歩いてノートル・ダム大聖堂の在るシテ島まで最後のパリを感じて歩きたいところでしたが、辺りは既に夕暮れに近付いているので仕方ありません。
シャトレ駅を出ると、目の前にサン・ジャク塔が見えます。
サン・ジャク塔
元は1514年建てられた サン・ジャック・ドゥ・ラ・ブシュリー教会 の鐘楼部分でしたが、フランス革命時に破壊され、この塔だけが残ったものです。その後1836年にパリ市が買い上げ、1850年代に建築家テオドール・バリュによって改築され、その周囲に広場も整備されました。
サン・ジャク広場に隣接するシャトレ広場には
シャトレ広場はナポレオンの時代に、要塞の跡地に造られた広場です。ナポレオンのエジプト遠征の勝利を記念して建てられた、黄金に輝く勝利の女神を頂く噴水と支柱が目印です。
直ぐ横の サンジュ橋 の袂から、セーヌ川に架かる ポン・ヌフ橋 越しに見えるのは、ゴシックドームの コレージュ・デ・キャルト・ナシオン ( 四国学院 ) と エッフェル塔 を見る。
視線を左に振ると
サンジュ橋 の向こうに コンシェルジュエリー が見えます。
パリ市庁舎
少しだけセーヌ川沿いのジェヴル通りを歩き、ノートル・ダム橋 を通り過ぎ、アルコル橋 の辺りから パリ市庁 が見えました。
アルコル橋 の袂から ノートル・ダム橋 方向を見る。中央のドームは 商業裁判所。その右隣は コンシェルジュエリー。 細い塔は サント・シャペル です。
アルコル橋 を通ってシテ島に渡ります。そのままアルコル通りを直進すれば、ノートル・ダム大聖堂 前の広場に出られるのでしょうが、改修工事中なので、聖堂だけでなく広場も封鎖されていました。
ノートル・ダム大聖堂 の正面向かって左側の鐘塔を見上げる位置に出て来ました。
正面向かって左側面 ( 北側 )
一昨年 ( 2019年 ) 4月15日の火災により、尖塔を始めとして木造の多くの部分が焼失しました。この時は火災から10ヶ月以上経っていましたが、改修工事の真っただ中でした。
側廊の上部に架かるフライング・バットレスを支える袖壁上の装飾。 フライング・バットレスが無事か知りたかったのですが、このアングルでも良くは分かりませんでした。

キマイラ像
キマイラはギリシャ神話に登場する怪物ですが、ここでは魔除けとして上部の回廊に並び、睨みを聞かせています。
内部には入れないので、ここから反時計周りに聖堂の周りを歩いて行きます。
ノートル・ダム大聖堂 正面西側立面
ノートル・ダム大聖堂 が建つ場所はパリの歴史そのもの言っても過言ではない場所です。紀元前300年頃、シテ島に定住したケルト人のパリシィ族が彼らの守護神の祭壇を建てたことが始まりです。紀元前52年にはカエサルがガリア ( 現フランス ) を征服し、ローマの神々を祀りました。ローマ帝国が滅びメロヴィング朝がパリを都としてからは、古来の聖地にキリスト教の聖堂を建てたのです。パリは王宮と聖堂の在るシテ島を中心に発展し、12世紀には西ヨーロッパの文化の中心にまで成長します。そんな王都に相応しい大聖堂として、1163年に ノートル・ダム大聖堂 の建設が始まりました。その後182年の歳月を掛けて建設が行われ、1345年についに完成したのです。ノートル・ダムとは「われらが貴婦人」の意味します。空に向かって高らかに聳える2本の鐘楼には、優雅で美しい彫刻と沢山の窓が施され、西・南・北側のバラ窓の美しさは、写真で見ても息を飲む程です。遥々パリまでやって来たのに、ノートル・ダム大聖堂 のバラ窓を見られなかった事は残念でなりません。


西側のバラ窓の前には、キリストを抱く聖母マリア像が置かれています。聖母崇拝は中世ゴシック期の建築テーマの中心でした。聖堂内から見たバラ窓は手持ちの資料から
南側のバラ窓
以下4枚は数年前に娘が撮影したものです。



聖母マリアのポータル ( 正面玄関 ) 向かって左側の扉で「聖母マリアの戴冠」が描かれています。上段にはキリストから祝福を受ける聖母マリアが、中段では聖母マリアが地上に生を受ける場面が描かれています。
最後の審判のポータル 中央の扉で「最後の審判」が描かれています。上部中央に鎮座するキリストが最後の審判を行い、中段の向かって左側には天国行の人々が、右側には地獄行の人々が描かれています。
聖アンナ ( サン・タンヌ ) のポータル 向かって右側の入口には、他二つの入口と同様に、扉上部の重なっる尖頭アーチに囲まれた部分 ( タンパン ) には、細かい彫刻が施されています。上段には聖母子像、向かって右端にはルイ7世が跪く姿が、左には司教杖を携えたパリ司教モーリス・ドゥ・シュリーが描かれています。

正面広場を通り過ぎプチ橋から撮る。
火災で崩れ落ちた尖塔はこの時点 ( 2020年2月末 ) では再建されていないようです。
南側鐘塔に設置された13tの巨大な鐘は、17世紀にパリ市民の女性の寄進によって造られたものです。
セーヌ川を渡り左岸から南側立面を撮る。北面のバラ窓も確認出来ませんでしたが、南面のバラ窓も無事だったのか分かりません。
フライング・バッドレスを下から木トラス?で支えている事が分かります。
フライング・バッドレスをは火災では崩壊を免れたようですね。
このアングルの ノートル・ダム大聖堂 の姿もポスト・カードなどで良く見掛けるのですが、足場で隠れてしまい、軽やかに中に並ぶフライング・バットレスを見ることは出来ませんでした。
アルシェヴァシェ橋を通り、セーヌ川を渡って再びシテ島に戻ります。
聖堂北東側、クロワトル=ノートル・ダム通りから撮る
左岸セーヌ川沿いモンテベロ通り沿いの路地と建物を撮る


セーヌ川沿いのオー・フラール通りを歩いてアルコル橋へ向かいます。
- 2021/01/13(水) 11:30:00|
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リシュリュー翼の1階の彫刻を見学した後、中庭を取り囲む東側のシュリー翼へ移動しますが、彼方此方が工事中で塞がれていたり、ある筈の階段が見つからなかったりで右往左往するだけで、終いには何処に居るのか分からなくなってしまいました。散々歩き回った挙句、目当ての絵画にはたどり着けず、結局はシュリー翼の写真は一枚も撮っていませんでした。それでも窓からの景色で居場所を確認出来たのでシュリー翼は諦め、再度リシュリュー翼に戻り、3階のフランス絵画のエリアへ向かいました。
ここではフェルメールのレースを編む女を見たのですが、日本人の女子大学生の団体が絵の前で教授らしき人が講義を始めてしまい、写真を撮ることが出来ませんでした。同じエリアにある筈のガブリエル・デストレとその妹は貸し出し中なのか見付けられずで、結局ここでも写真は無しに終りました。
ここからは混雑が予想されるドゥノン翼へ。まるで工事中の地下鉄の通路のようなシュリー翼西側の通路を通ってドゥノン翼に出ると、急に視界が開けます。そこには
サモトラケのニケ ニケは勝利を表す女神です。
1863年にエーゲ海のサモトラケ島で発見。ご覧の通り頭部と両腕は無くなっていますが、溢れ出る力強さと躍動感から、ヘレニズム彫刻の傑作と言われています。紀元前2世紀初頃、ロードス島の海戦の戦勝記念に造られたものです。
風に揺れるキトンの描写が見事です。ギリシャ文明って凄かったんですね。
グランド・ギャラリー
画家でルイ16世のコレクションの管理者だったユベール・ローベルはルーヴル美術館の初代館長。ロベールが描いた「ルーヴル、グランド・ギャラリー改造計画」には、ヴォールト天井をガラス張りに計画が、既に描かれていました。
さあいよいよモナリザです。
モナリザ レオナルド・ダ・ビンチ作 1503~1506年
流石にこの部屋は混んでいて、正面から撮ってないので、少し縦長のモナリザです。
四季 ジョゼッペ・アルチンボルド作アルチンボルドは野菜や果物や花で顔を描く画家で、ミラノ生まれ、ルネサンス期後期マニエリスムを代表する画家の一人です。
再びグランド・ギャラリーに戻って
民衆を導く自由の女神 ウジェーヌ・ドラクロワ作
メデュース号の筏 ジェリコー作 1819年
ヤッファのペスト患者を見舞うボナパルト グロ作 1804年
グランド・オダリスク アングル作 1814年
ナポレオン1世の戴冠式 ダヴィド作 1806~1807年
1804年12月2日にノートルダム大聖堂で法王ピオ7世によって行われたナポレオン1世の戴冠式を描いたもの。本来の戴冠は法王の手にによって行われるものなのですが、実際はナポレオン自らが王冠を戴冠してしまいます。この出来事を描くことを恐れたダヴィドは、ナポレオンが妻ジョセフィーヌに王冠を授け、法王が祝福を与えている場面を絵に残したとか。
全く同じ絵がヴェルサイユ宮殿にも展示されていますが、5人の女官一人のドレスの色だけが違っています。
ヴェルサイユ宮殿のナポレオン1世の戴冠式

ドゥノン翼2階の絵画エリアをぐるりと回って、サモトラケのニケの展示してある階段ホールに戻って来ました。

ここまでに美術館の中をグルグルと彼方此方歩きか回っていたので、既にかなり疲れていました。まだミロのビーナスを見ていなかったのですが、何処に展示してあるのか調べる気力もなくなってしまい、諦めて美術館を出ることにしました。他にもアポロン・ギャラリーを見逃したのも心残りです。
ガラスの逆ピラミッド
ナポレオン・ホールに戻り、ホールの回りの土産売り場でショッピングをして
ちゃんと記念撮影もしてから、改修工事中のノートルダム大聖堂へ向かいます。
- 2021/01/09(土) 16:19:00|
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出来れば昨年の内に「パリ旅行記」を終わらせたかったのですが、あと数回はお付き合いをお願いします。
カルーゼル広場から見た ルーヴル美術館
ルーヴル美術館 はあまりに巨大な建物なので、地上からではその全景を写真に収めるのは不可能なので、先ずは手持ちの資料の鳥観図から。
上の写真より少しだけ前進して広角レンズで撮影。ルーヴル宮殿 は完全に近い左右対称のデザインで、同じ様式で建てられているので、同時期に一つの設計思想に則って建てられたものに見えます。
王政期~革命期~帝政期 に渡り多くの王や皇帝によって、数百年もの永い歳月を掛けて造られたとは驚きです。
上の図には記されていませんが、ルーヴルは1190年にカペー朝のフィリップ二世が、北方からのノルマン人の侵入を防ぐ為にセーヌ川右岸に建てた要塞が始まりです。その後、歴代の王達はルーヴルを離宮として利用し始め、次第に王の御座所や会議や宴会の出来る棟も建てられます。14世紀のシャルル五世の頃には、大きな窓と急勾配の青い屋根を持つ優雅な城に変わって行きます。正式な王宮としての建設が始まるのは1527年に行われたフランソワ一世の宣言によってです。フランソワ一世は■の部分にルネサンス様式の宮殿を建てます。その後カトリ-ヌ・ド・メディシスは■の部分 1871年に焼失したチュイルリー宮殿とセーヌ川沿いの一画を建設。続いてアンリ四世はグランドギャラリーを建設してそれらを繋げます。更にアンリ四世は方形広場(クール・カレ)と宮殿の面積を4倍に広げる計画を立案。続くルイ13世は■の部分を、ルイ14世は■の部分を建設してその意思を継ぎます。しかしその後、ルイ14世はヴェルサイユ宮殿の建設に心が移ってしまい、ルーヴル宮殿は100年以上に及んで放置され、市民が勝手に住み着いて荒れ放題の時代が続くのです。そんなルーヴルを救ったのは皇帝となったナポレオン一世とナポレオン三世です。ナポレオン一世は■のセーヌ川沿いのクランドギャラリーと対をなす北側棟の部分。最後にナポレオン三世が現在のルーヴル宮の姿が完成する為に必要な、残りの多くの■の部分を建設したのです。
左から リシュリュー翼 シュリ翼 ドゥノン翼
ガラスのピラミッド
ドゥノン翼
左側の北棟はリシュリュー翼 ガラスのピラミッドの後ろはシュリ翼

リシュリュー翼コーナーの部分にはナポレオン三世が暮らした居室が在ります。

リシュリュー翼
(一日目に撮影)
リシュリュー翼の先端部 (一日目に撮影)
(一日目に撮影)
南 (セーヌ川) 側に目を移します。
南棟 ドゥノン翼 門はカルーゼル門
セーヌ川沿いのフランソワ・ミッテラン通りから見たグランド・ギャラリーとカルーゼル門 (一日目に撮影)
ドゥノン翼の先端部をセーヌ川の対岸から写したもの (一日目に撮影)
ドゥノン翼、グランド・ギャラリーの先端部 (一日目に撮影)
ガラスのピラミッド の前に戻って来ました。
ルーヴル・ピラミッド はナポレオン広場の中央に、美術館のメイン・エントランスとして 1989年に、当時のミッテラン大統領による「パリ大改造計画」の一環として、建築家イオ・ミン・ペイ の設計により完成しました。
高さ20.6メートル、底辺35メートルで、603枚の菱形と70枚の三角形のガラス板で構成された中央の大ピラミッドの周りに、3つの小ピラミッドが囲むように配置されています。
美術館に訪れる入館者は、先ずはこのルーヴル・ピラミッドを通って巨大な地下ロビーへと降りてから、南棟 (ドゥノン翼)、東棟 (シュリ翼)、北棟 (リシュリュー翼)へと分散して昇って行くと言う動線とすることに成功。 膨大な数の入館者に対応しきれないという問題点の解決させました。
建設当初はエッフェル塔やポンピドゥーセンター建設の時と同様に、パリの伝統的な街並みを壊すものとして、ここでは「古典的な建築物であるルーヴル宮殿の前には相応しくないのではないか」と言われましたが、今ではパリのランドマークの一つになりつつあります。
- 2021/01/07(木) 19:00:00|
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シャイヨー宮 ある 建築・文化財博物館 の見学を終え、メトロを乗り継ぎ午後一で予約してある ルーヴル美術館 のへ向かいます。
トロカテロ駅からメトロ-9号線に乗り、フランクリン・ディー・ルーズベルト駅でメトロ-1号線に乗り換え、パレ・ロワイヤル・ミュゼ・デュ・ルーブル駅で下車します。
前日は昼食を抜かして為に、夕方バテてしまいました。午後のルーヴルは巨大な美術館なので、館内を相当距離歩く事になるので、栄養補給と休憩の為に昼食を抜く事は考えられません。店を選んでいると迷って時間が掛かりそうなので、前日に友人に場所を教えてもらったラーメン屋に入ることにしました。

メトロの駅を出て パレ・ロワイヤル 前の広場からサントノーレ通りのメトロの出入口を見る。
オペラ通りを渡ってアンドレ・マルロー広場へ
広場に面して シャンヌ・ダルク のレリーフが施された建物が在り、その建物がお目当てのラーメン店の ヒグマ です。
お世辞にも、とても美味しいラーメンとは言えませんが、異国で食べるラーメンとしては、まあ及第点はあげられると思います。
思ったよりも空いていてすんなり入店出来き、食べ慣れたラーメンを食べたのでおかげで、食事の時間が短くて済んだの事で、予約した時間迄には30分以上余裕が有ったので、ルーヴル美術館 の周りをぶらぶらしようとガルーゼル広場へ向いしました。

カルーゼルの凱旋門
皇帝になったナポレオンは、パリを自分好みの古代ローマ帝国風にしようと改造に着手します。その象徴として造られたのが 凱旋門 です。1805年にアアウステルリッツでオーストリア・ロシア連合軍を破った翌年に、ルーヴル宮 の前庭に建てさせたのが、この カルーゼル凱旋門 です。
頂上の馬像はワーテルローの戦の後にイタリアに返却されますが、1808年の建設時にはイタリア遠征の際に略奪した太陽の戦車を引く「黄金の馬」4頭が飾られていました。
現在の像が置かれたのは1828年です。
大きさは 高さ19メートル、巾23メートル、奥行7.3メートルあります。 中央のアーチの高さは6.4メートル、両脇の小さなアーチの高さは4.3メートルです。前後に4本ずつ設置されたコリント式のオーダー柱は花崗岩で造られています。
ローマの コンスタンティヌスの凱旋門 を思わせる カルーゼルの凱旋門 ですが、 ナポレオンが思っていたものよりも、かなり小さかった事が不満で、もっと大きな凱旋門の建設を命じて造られたのが エトワール凱旋門 です。
カルーゼルの凱旋門の前を通り過ぎ、カルーゼル広場をセーヌ川側の門から出て
キャルーゼル橋 の袂から隣に架かる ロワイヤル橋 を見る。後ろには オルセー美術館 も見えています。
セーヌ川沿いを暫く散策したいところですが、それ程時間が無いので再び門を潜ってカルーゼル広場に戻ります。
カルーゼル広場から硝子のピラミッド越しに ルーヴル美術館 を撮る。
風が強かったので髪の毛がボサボサです。
- 2020/12/28(月) 19:00:00|
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シャイヨー宮 内の 建築・文化財博物館 の三回目は、ル・コルビジュエ の 代表作であり代名詞と言っても過言ではない
ユニテ・ダビタシオン の実物大住戸再現模型を見学します。
先ずは全体模型から
ヨーロッパ各地に建てられた ユニテ・ダビタシオン かと思いましたが、どれもマルセイユの模型の様です。
長手方向に二つに切った構造体フレーム模型
ピロティ部分の彫刻的なコンクリート打ち放し部分が有名ですが
手持ちの資料から
現場打ちのコンクリート打ち放しなのはこの基壇部分だけで、上階の住居部は鉄骨のフレームにプレキャストコンクリートを取り付けたものです。
短手方向に切った断面模型
建物全体を作った外観模型
ユニテ・ダビタシオン はこの1952年にマルセイユに完成したものが一番有名ですが、フランス国内ではナント、モー。西ドイツのベルリンにも建てられました。
マルセイユの ユニテ・ダビタシオン 外観も手持ちの資料から
代表的な住居プランを表した断面模型
中廊下を中心に、メゾネットタイプ住戸が配置されています。三層で一本の中廊下で構成されている訳です。
手持ちの資料から断面図と平面図
1945年に第二次世界大戦後の、不足する住宅問題を解決する為、フランス政府から依頼された実験的な集合住宅で、大地から切り離された住居単位はピロティーにより持ち上げられ、商店街や幼稚園や娯楽施設なども含くみ、1600人生活に必要な施設を併設した一つの都市を構成しています。

屋上には託児室、幼稚園、幼児用プール等の子供用の施設の他、体育館、日光浴室、更衣室、ステージ、トラック等の大人の為の施設も備えられ、まるで彫刻の様にデザインされた排気口やエレベータータワー等のコンクリートの造形物が並んでいます。
以下の6枚の写真はストリート・ビューから
排気塔と体育館、屋上の周囲はトラックです。
子供用プールとその上は託児所
エレベーター・タワー
スーパーやホテルの在るフロアー。 住居部の廊下は中廊下で日差しは入りません。この階の廊下は日差しの入る無唯一の廊下です。
建築・文化財博物館の実物大模型に戻ります。
住居単位の一住戸を実物大に再現しています。マルセイユニテ・ダビタシオンは単身者用から4人家族用まで、23タイプの337戸から構成されているのです。
廊下の再現部。 左右に玄関があります。住戸が再現されているのは左側の赤い玄関の住戸。
早速中に入ってみましょう。
玄関から入ると、左手にキッチンスペースが、奥にはリビング・ダイニング越しにバルコニーが見えます。
リビング・ダイニングからバルコニーを見る。二層吹き抜けの気持ちの良い空間です。
青、赤、黄色、緑 等に塗られた家具が並びます。

吹抜けの上部は主寝室。単純なデザインながら、階段のデザインが素敵です。
ダイニングテーブルの奥に、キッチンとを仕切る対面カウンターもカラフルなデザインです。

ちょっと記念撮影も
次回はキッチンと上階のプライベート・スペースを紹介します。
- 2020/12/05(土) 12:47:00|
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今日は近代建築を展示しているエリアを紹介します。
先ずは
第一日目に訪問し、既に紹介済みの フランクリン街のアパート
二日目に訪問した ル・ランシーのノートルダム教会
ガラスブロックの実物大モデルも展示されています。

この建物はパリの北部、モンマルトルの更に北、マミロー通りとエルマンヌ=ラシャペル通りに囲まれた、内部にプールの有るアパートメント。


ストリート・ビューで現在の姿も確認で来ました。

この建物ついて詳しく調べようと思い、手持ちの資料 ( 近代建築史図集 ) でこの建物の写真を見付けましたが、ヴァヴァン街のアパート ( 設計者 / アンリ・ソヴァージュ ) と記されていました。ヴァヴァン通りはリュクサンブ-ル公園とモンパルナス駅の間に在る通りです。ヴァヴァン通りをストリート・ビューで調べてみると、雰囲気の似た建物を見付けました。

手持ちの資料 ( 近代建築史図集 ) の写真が間違ているのでしょうか?

クラシックな雰囲気建物。アパートメントでしょうか?

この建物も地図からストリート・ビューで現在の姿を確認しました。

すっかり周りの建物に溶け込んでいます。

この建物も詳細が分かりませんが、一つ上の建物とは全く雰囲気の違うモダンデザインの建物で。
ストリート・ビューでリュクサンブール公園の西側に現在の姿を確認しました。


ル・コルビジュエのドミノ
ル・コルビジュエ 提唱した 近代建築の5原則
1.ピロティ、2.屋上庭園、3.自由な平面、4.連続窓、5.自由なファサード を端的に表現しています。
窓からの風景

右から エッフェル塔、モンパルナス・タワー、アンバリット の黄金のドームも見えます。


左から サン・シュルピス教会、パンティオン、アンヴァリット
次回は ル・コルビジュエ の ユニテ・ダビタシオン を紹介します。
- 2020/11/25(水) 08:00:00|
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コルビジュエとギマール設計した近代建築の名作の見学をし、ジャスマン駅からメトロ-9号線で次の目的地の シャイヨー宮 の在るトロカテロ駅へ向かいます。
シャイヨー宮 は古い建物に見えますが、1937年に開催された パリ万博の際に建築されたもので、翼を広げた鳥の様な平面が特徴的な建物です。内部は現在は博物館等になっていて、海洋博物館、人類博物館、建築・文化財博物館、シャイヨー宮劇場などが在ります。今回の目的は勿論 建築・文化財博物館 を見学する為にやって来ました。

上の外観は1日目に紹介した エッフェル塔 側の イエナ橋 から撮影したものです。

トロカデロ広場に側から見た シャイヨー宮

建築・文化財博物館 のオープンまでにしばらく時間が有ったので、トロカデロ広場に面するカフェで一休みしてから入館しました。

まだ調べはついていませんが、ゴシック教会の鐘塔の頂部?
館内には実物大の部分模型や縮小された名建築の模型が並んでいて、時間が在れば一日中でも、何回でもこの場に居たいと思ってしまいます。

尖頭アーチ

何処かの 凱旋門 でしょうか?

ギリシャ・ローマ建築の物ばかりではないのでしょう。見慣れない柱頭の模型や装飾も展示されています。


ガーゴイルにも色々な種類のものがあるようです。



この模型は セント・シャペル だと思います。

実物は廻りを建物に囲まれて建っているので、全体像が分かり難かったので嬉しいです。

これは去年の火災で改修工事中の パリのノートルダム大聖堂


この教会は何処なのか、色々なゴシック教会を検索してみても調べは付きませんでしたが、学生の頃に購入した手持の資料 ( 建築学体系-5 西洋建築史 ) から ラン大聖堂 だと分かりました。ランの町はパリの北東約120kmに在る小さな町の様ですが、この模型を見る限り、かなり立派な教会堂です。

エトワール凱旋門

この凱旋門の模型は何処の物か分かりません。ルーブル美術館の前に在る カルーゼル凱旋門とは違います。ローマの コロッセオ の隣に在る コンスタンチヌスの凱旋門 とも違います。フォロロマーノ内の ティトゥスの凱旋門 とも セプティミウス・セウェルスの凱旋門 とはもコリント式の付柱が有るデザインは共通していますが、アーチの通路の開け方が明らかに異なります。
アーチの通路の開け方と全体のプロポーションから想像できる規模から想像するに、エトワール凱旋門 の別案なのかも知れません。
次回は近代建築のエリアを紹介します。
- 2020/11/24(火) 12:16:00|
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ラ・ロッシュ邸の外観の見学を終え、路地を出てドクター・ブランシュ通りを左折。ラフェ通りとのT字路も左折して1分足らず歩いたでジャスマン通りとのT字路です。

恐らくアパートメントだとだと思われる小さな石造の建ですが、石積を表した外壁が目に留まったのでシャッターを押しました。
そのままジャスマン通りとを進み、ミシオン・マルシャン通り~ピェール・グラン通りを抜け、6差路を左折してモーザール通りへ出ると、左手の街路樹の陰に曲線で構成された小さな建物が見えて来ます。

ギマール館
奥行き20m程の短い路地の入り口部分の角地に建っていて、道路から見ると気が付きませんが、ほぼ直角三角形の平面の建物です。


設計者 / エクトール・ギマール
建築年 / 1909年
所在地 / パリ市16区モーザール通り
この建物はギマールが歌手アデリーン(アドリーヌ)・オッペンハイムとの新婚時代を過ごした自邸です。

同一系統の色でまとめているで、一見華やかさに欠けた印象ですが、路地に面する部分の窓はアール・ヌーボーのそのものです。

増築と言う事は無いでしょうが、最上階の窓と庇だけは、直線的なデザインです。



コーナー部分の開口部も、大人しめの曲線でデザインされています。


モーザール通りへ側の立面は更に大人し目なデザインで、エントランス以外には、殆どアール・ヌーボーらしさは感じられません。

この写真だと、平面が直角三角形であることが分かります。



最後は恐らく半地下部の明り取り小窓です。


おまけ

路地の奥のアパート・メント
今回は見学を諦めましたが、ここから歩いて10分以内の範囲に、ギマール設計の建物が在ります。
モーザール通りを北に向かってジャスマン駅に戻り、メトロ-9号線でシャイヨー宮の在るトロカテロ駅へ向かいます。

モーザール通りを沿いのアール・ヌーボー風の庇のある建物。
以下は近くに在るギマール設計の建物を、ストリートビューから

メザラ館
設計者 / エクトール・ギマール
建築年 / 1910年
所在地 / パリ市16区 ラ・フォンテーヌ通り

カステル・ベランジェ
設計者 / エクトール・ギマール
建築年 / 1898年
所在地 / パリ市16区 ラ・フォンテーヌ通り
次回はシャイヨ-宮内の建築博物館を紹介します。
- 2020/11/17(火) 19:01:00|
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今回からパリ旅行の四日目です。次の日は帰国日で朝から シャルル・ド・ゴール空港 へ向かうので、事実上パリ観光の最終日になります。
この日は朝食後に宿泊しているホテルの隣のショッピングセンターでお土産用の缶詰ハーブティーを物色してから出掛けました。
何時もの様にガリエーニ駅からメトロ-3号線に乗り、メトロ-9号線に乗り換えてジャスマン駅で下車。イヴェット通りからジャスマン通りに入り、1~2分歩きます。

ジャスマン通りとアンリ・エーヌ通りの交差点の建物
パリの建物の妻壁は、こんな感じの石積みの外壁が多いです。
交差点を右折しアンリ・エーヌ通りを北に2分程進みます。

アンリ・エーヌ通り沿いに建つ何棟かのアパートメントの玄関には、アール・ヌーボー風にデザインされた鉄と硝子の庇が施されています。

ドクター・ブランシュ通りとのT字路迄進み左折すると

直ぐに ラ・ロッシュ - ジャンヌレ 邸の在る路地が在ります。
路地を入ると、数十メートル先の路地の奥に ラ・ロッシュ - ジャンヌレ 邸が見えて来ます。

ラ・ロッシュ - ジャンヌレ 邸
コルビジュエの友人であり銀行家であった ラウル・ラ・ロッシュ氏 と コルビジュエの兄、音楽家の アルベール・ジャンヌレ氏 の2棟の邸宅からなる建物です。
L字型の奥の部分が ラ・ロッシュ邸 。1階の2つ並ぶ灰色のガレージ扉の真ん中より手前が ジャンヌレ邸 で、現在は建物を管理している コルビジュエ財団の事務所と資料室となっています。


設計者 : ル・コルビジュエ
建築年 : 1923年
所在地 : パリ市 16区

ラ・ロッシュ邸
有料で内部の見学は可能なのですが、この日はあいにく非公開日だったので見学することは出来ませんでした。

大きな窓が在る入り隅部は、2層吹き抜けの玄関ホール。
向かって左側の局面壁の部分には絵画ギャラリーになっています。

玄関を見る。
内部の画像はは手持ちの資料から


絵画ギャラリー

局面壁に沿って設けられた斜路が、この空間を特徴づけています。


1階部には、近代建築の五原則の一つである ピロティー も見られます。

ジャンヌレ邸
この後はアール・ヌーボーの ギマール館 へ向かいます。
- 2020/11/16(月) 16:35:00|
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サン・シュルピス教会 が見所満載だった為に、内部の見学を終えるとすっかり陽が落ちていました。中食抜きで朝から歩き通しだったので サン・ジェルマン・デ・プレ教会 の見学は諦めて早めの夕食をとることに。日本では陽が落ちたばかりの早めの時間夕食は、旅行中では珍しくありませんtが、フランスではこの時間から2~3時間後が本格的なディナータイムです。でも歩き過ぎと空腹で散策を続ける気力は残っていませんでした。
最後の力を振り絞ってサン・シュルピス広場 からBonaparte通り を北に向かい、サンジェルマン大通り とぶつかる五差路に出ると、美しくライトアップされた鐘楼が見えて来ました。

サン・ジェルマン・デ・プレ教会
パリジャンの中でも、左岸を愛する左岸派と言われる人達にとって、心の灯台とも言われている教会です。
教会の起源は6世紀。メロヴィング朝のクローヴィスの子であるシルドベール王が、スペイン遠征の際に殉教したサン・ヴァンサンの遺物を持ち帰り、パリ司教サン・ジェルマンが王の墓と聖遺物を収める為に、542年に建てたのがこの教会の前身です。

8世紀以降はベネディクト会の修道院として栄え「黄金のサン・ジェルマン」と呼ばれる時期がありましたが、9世紀にノルマン人 ( ヴァイキング ) の侵入により荒廃します。
再建は990~1021年にフランス王ロベール二世によって行われ、現在の教会のシンボルである鐘楼も、この時の再建工事の際に建てられた物です。但しこの時は3つの鐘楼が在り、現在は入り口の1つが残っています。

12世紀に入ると、修道僧の収容能力を上げる為の拡張が行われ、1163年に完成します。
17世紀には修道院は更に大拡張され、城壁・物見塔・防塁・濠までを備えた武装能力を高める工事が行われ、この時期最盛期を迎えます。
しかし、革命で多くの部分を焼失し、1821年に行われた修復以降、ほぼ現在の姿に至っています。

幾度となく行われた改修工事の為、内部は様々な様式が混在しているようです。

奥行き65m、幅21m、高さ19mの教会の内部には、分厚い壁に窓や装飾が少ないロマネスク様式の特徴や、回廊や柱、リブ・ヴォールトにはゴシック様式の特徴も見られるそうです。

サン・ジェルマン大通りから見る
以下のサン・ジェルマン・デ・プレ教会の内部の写真は、パリ在住の友人が2021年1月に撮影したものです。



友人によると、この教会の内部は、パリの教会の中で最も美しいと言われているそうです。
小雨も降って来たので、この後何処を通ったかはよく覚えていませんが、近くのガラス張りのアーケード街 ( パッサージュ ) の何処かの店に入れたので、やっと落ち着いて座ることが出来てホッとしたところです。

このビールがなんとお美味しかったことか!!

ただ、あまりにお腹が空き過ぎていたのか、意外に量は食べられませんでした。

- 2020/11/06(金) 11:42:00|
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忙しにかまけて パリ旅行記 の更新が前回から2ヶ月以上も空いてしまいました。
先ずは前回の最後に引き続き 教会前の広場から観た サン・シュルピス教会 の外観から。

左右の鐘塔のうち、向かって左側の塔が僅かに高く見えます。
塔の高さは34ⅿ。
左右に鍾塔が聳えるシルエットから、ノートルダム大聖堂の様なゴシック教会かと思ってしまうかもしれませんが、よく見てみると一層目はドリス式、二層目はイオニア式の古典的なオーダー柱を施したローマ式コロネードを用いた重々しいデザインの新古典主義様式の教会であることが分かります。

高さが違って見える鍾塔は、デザインも左右で異なります。
向かって左側の鍾塔は、4方に三角のペディメントを設けた正方形の小神殿風の下部層に、イオニア式の半円形の付柱を施した下部層よりも一回り小さな円形の上層が載っています。

向かって右側の鍾塔は、下部層は4角の面をとった8角形の平面で、ペディメントは半円形になり、上層の付柱が、やけにあっさりとした物足りない仕上がりなのは、未だに未完成だからだという事です。
建設は1646年にのルイ13世の王妃アンヌ・ドートリッシュの命により、ルイ・ル・ヴォーを中心に設計が始められます。正面はロココ様式を得意とする建築家メソニエによって1726年によってデザインされますが、後に古典主義様式のジャン・ニコラ・セルヴァンド-ニの案が採用されます。工事は何度も中断されながらも、1745年に完成しますが、1762年には火災、1770年には落雷により正面が破損され、最終的にはシャルグランによって修復されたそうです。何故右側の鍾塔の最上部が、未だに未完成なのかに言及する資料は見付けられませんでした。

A. 出入口の両側の壁龕には、二人の聖人と思われる凛々しい彫像が置かれています。写真は向かって右側の彫像です。

B. 中央出入口辺りから身廊を通して中央祭壇方向を見る。
聖堂の奥行きは最長部で113ⅿ、幅は58mあり、パリではノートルダム大聖堂に次ぐ大きさです。

2. 聖堂内部の平面構成は身廊の両側に側廊を配した3廊式。 短い翼廊的な部分があるので、十字型プランと言えそうです。

側廊の外側に大中小づらりと祭室 ( チャペル ) が並んでいます。どの写真がどの祭室か分かる範囲で、写真に上の図面の番号を記入してゆきます。
先ずは入り口から側廊を時計回りに進んで行きます。

24.

J.

22.

20.

20. キャンドルの光に浮かび上がった彫像が美しいのでアップでもう一枚。

C. 左側周歩廊を見る

D. 中央祭壇 の上部見上げ

D. 中央祭壇

キリスト像

19. ぺテロ像 ?
左側翼廊部に置かれているのは ぺテロ像 でしょうか?

19. ローマのサン・ピエトロ大聖堂内のペテロ像に、顔が似ている気がしますが真偽は分かりません、ただ、右足の足先だけが光っているのは、サン・ピエトロ大聖堂と同じで、皆が御利益御利益を願って触っているからでしょう。
ペテロ像らしき彫像の隣には、この教会が再注目されたきっかけになったものがあります。

19. グノモンの日時計
サン・シュルピス教会 がにわかに再注目されたのは、2003年に出版され、トム・ハンクス主演で映画化もされた ダン・ブラウン作の ダ・ヴィンチ・コード の中で、この白い大理石で造られたオベリスクとその足元から一直線に伸びる真鍮製の子午線が ローズ・ライン と呼ばれて、劇中で重要な要素として登場してからです。

ダン・ブラウンは大好きな作家の一人なので、ローズラインにはちょっと興奮しました。

17. 中央祭壇の後方の周保廊を時計回りに進みます。

16.

15.


13. 教会内で最奥部にある礼拝堂

13. 光に照らされた美しい 聖母子像 が目を引きます。
ジャン・バティスト・ピガール作
美しい模様が現れるコリント式の大理石柱はローマ時代の遺跡だそうです。

13. 天井画は 聖母被昇天 フランソワ・ルモワール作

13.

12. 12・11・10・9 は自信がありませんが前後からたぶん・・・。

11.

10.

9.

8.

E.

F. 右側翼廊辺りから中央祭壇を見る。

6.

H. 説教壇

G. 説教壇

G. 中央祭壇方向を見る

G. 同じ場所から振り返って出入口方向を見る パイプオルガン
1862年にアリスティド・カヴァイエ・コルによって製作されたもの。


5.

4.

3. この彫像も サン・ピエトロ大聖堂 にあった ミケランジェロ作のピエタ に似た雰囲気です。調べてみると、やはり題材はミケランジェロと同じ ピエタ でした。

3. ピエタ オーギュストクレシンガー作

3. 有名な彫像ではないようですが、悲しくも優しい表情が印象的です。

1. 内部の最大の見どころは ドラクロワ のフレスコ画だと思います。

悪魔を撃つ大天使ミカエル ( 天井画 )
天使とヤコブの戦い ( 壁画 )

悪魔を撃つ大天使ミカエル ( 天井画 )

天使とヤコブの戦い ( 壁画 )

I. の位置から前室を見る

B. 中央出入口扉

柱頭部はドリス式見えましたが、足元はオニア式のような・・・?

外はますます暗く成って来ました。


サン・シュルピス教会 の右に見える噴水はヴィスコンティ作の 四人の枢機卿の噴水
ヴィスコンティの噴水 とも呼ばれているそうです。

サン・シュルピス教会 の前から広場と ヴィスコンティの噴水 見る。
- 2020/10/24(土) 16:07:00|
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オペラ・ガルニエ の見学を終え、この日本来なら昼食をとりがてら散策をする予定だった、カルチェ・ラタン方面に向かうことに。メトロ-オペラ駅からメトロ-7号線に乗り、はっきりとは覚えていないのですがシャトレ駅辺りで下車し、サンミッシェル通りを通ってエドモン・ロスタン広場辺りまで、路線バスを利用して南下したのだと思います。
カルチェ・ラタン地域で最初に向かったのは パリの パンティオン です。
エドモン・ロスタン広場からスフロ通りに入ると、正面に パンティオン が見えて来ます。

パンティオン ( 旧サント・ジュヌヴィエーヴ聖堂 )
入口に近付くと建物から出てくる人はいますが、中に入ろうとしている人は警備員に制止されているようです。どうやら入場は17時45分までだったらしく、既に閉館時間だったのです。残念!!

パリの パンティオン は、1744年に瀕死の病床から回復したルイ15世が、回復を神に感謝し、パリの守護神である聖ジュヌヴィエーヴを祀る為の聖堂を建設したものです。1755年に設計コンペが行われ、設計者はパリの国王の建築物の監督官だったジャック・ジェルマン・スフロに決定しました。しかし、資金不足や構造的な不備 ( 1778年にドームを支える主ピアに亀裂が見つかり、スフロの死の後、外壁の開口部は塞がれています。) などで完成が遅れ、竣工したのは1792年でした。完成が遅れたことで、フランス革命の波に飲み込まれ、革命政府が聖堂の建築を好まなかったことから、修道士の墓所となる予定だった地下納骨堂は、革命の英雄たちを祀ることとなり「フランス史における自由の時代に活躍した偉人を祀る万紳殿 = パンティオン 」とすることが決められたのです。
万紳殿 として造られた ローマのパンティオン が、キリスト教の聖堂に変えられることでキリスト教徒からの破壊を逃れた歴史とは、逆のケースと言えそうです。
パリのパンティオン には、ジャン・ジャック・ルソー、ヴォルテール、ヴィクトール・ユゴー、キュリー夫妻らが埋葬されています。ナポレオン政権下では一時聖堂としての役割を回復したことも有った様ですが、現在は「フランスの為に尽くした功労者の為の廟所」に落ち着いています。

ペディメントに施された浮彫は、フランスを表す女神が偉人たちに月桂樹を与える姿が描かれているそうです。フリーズ部に刻まれた文字は「偉大なる人々に祖国より感謝を」と記されています。
設計者 / ジャック・ジェルマン・スフロ
建築年 / 1792年
所在地 / パリ5区 パンティオン広場
建築様式 / 新古典主義
以下の画像は、パリを案内してくれた友人が、先月パンティオンを訪れた時の画像です。
広間
真上に地上80mのドームを頂く広間は奥行き110mあり、平面形状や縦横の大きさの割合などは全く異なるものの、どことなくローマのパンティオンの雰囲気を感じさせる内部空間です。
フ
フーコーの振り子
ドームの真下はフーコーの振り子の実験が行われた場所で、一日を刻む振り子が設置されています。

地下納骨堂
残念ながら パンティオン の内部の見学が出来なかったので、パンティオン広場に面する酷似したデザインの二棟の建物の写真を撮ってみました

パリ5区 区役所
パンティオンを背にしてスフロ通り方向を向いて左側。

ソルボンヌ大学
パンティオンを背にしてスフロ通り方向を向いて右側。
よく見ないと、同じ建物を撮影したかと勘違いするほど酷似した二棟の建物です。
時間は既に18時を回っていたのでじきに暗くなる筈です。急いで来た道 ( スフロ通り ) をエドモン・ロスタン広場まで戻りバス停を探します。カルチェ・ラタン辺りで見たかった建物は パンティオン 以外に サン・ジェルマン・デ・プレ教会、サン・シュルピス教会、リュクサンブール宮殿と公園 など幾つも在りましたが、全て廻る時間も体力も残っていません。
サンミッシェル通りをでバスに乗ったのは確かなのですが、パリ在住の友人と合流した後は、着いて行くだけで何処に向かっているのか分からなくなっていました。友人が乗るバスを間違えたのか、バスの窓からリュクサンブール公園を見学出来るようにしてくれたのかは分かりませんが、バスはサンミッシェル通りを南へ向い、モンパルナス通りを右折、次はラスパイユ通りも右折して、リュクサンブール公園を大きく回ってヴォージラール通りとの交差点辺りまでやって来ました。途中でバスを乗り継いだのか、所々歩いたのかははっきりとは覚えていません。

写真に撮ったこの街並みが何処なのか、全く分からなかったのですが、時間を掛けて記憶をたどり、ストリートビューを駆使して探し回り、ラスパイユ通りとヴォージラール通りとの交差点辺りだと分かりました。この後はヴォージラール通りに入り進んで行くと。

パリ・カトリック学院
赤煉瓦と白い石のツートンカラーの外壁に

窓下のデザインが目を引きます。
ヴォージラール通りを リュクサンブール宮殿 方向に進み、アッサス通りとの交差点には、ついシャッターを押したくなる建物が並んでいます。

アーサーベルネ医院
斜向かいのこの建物の赤煉瓦と白い石のツートンカラー。
この建物の装飾も見事です。
更にヴォージラール通りを リュクサンブール宮殿 方向に進むと左手に

サン・ジョセフ・デ・カルム教会
この教会にはベルニーニ作の「聖母子と幼子」が在るそうです。
残念ながら今回はスルーしました。
更に直進してギヌメ通りとのT字路には

Crédit du Nord ( 金融機関 )
この建物も見事な装飾とデザインの建物です。
右手にはリュクサンブール公園が見えて来ました。

リュクサンブール美術館
1750年に リュクサンブール宮殿 の東棟内に設置され、当初は、ルーベンス、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ヴェロネーゼ、ティツィアーノ、レンブラントといった王室コレクションを展示していましたが、ルーヴル美術館 に移管され、1818年に リュクサンブール美術館は 生存する芸術家のための美術館となり、アングル、ドラクロワ等の作品が展示されます。現在の建物は、元老院が リュクサンブール宮殿と庭園 の管理をすることになった1886年にを建築されました。1937年に国立近現代美術館が建設されると閉館されますが、1979年に再び公開され、2000年からは再び元老院が管理を行なっています。
リュクサンブール美術館 の前で、左折してフェルー通りにを1~2分進むと、お目当ての サン・シュルピス教会 が見えて来ました。

サン・シュルピス教会

次回は サン・シュルピス教会 の内部を紹介します。
- 2020/08/13(木) 15:43:00|
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オペラ・ガルニエ の三回目です。
グラン・ホアイエ の見学を終え、太陽の間 へ向かいます。

太陽の間 ( SALON DU SOLEIL )
太陽の間は小さな円形のサロンで、天井には夜空に光る星空のようにも見えますが、太陽の間 と言うからには、太陽が描かれているのでしょう。( 今回は見学していないのですが 月の間 と言う対の間が在るようです 。)
( GALERIE DU GLACIEL ) を通って
グラシエの間 ( SALON DU GLACIER )
と比べると、広い円形の グラシエの間 は、淡い色使いとぐるりと周囲に配された窓の為に明るい空間です。
ジョルジュ・クレラン作の天井画は酒の神であるバッカスの巫女などが描かれているそうです。

シャンデリアや天井の装飾も見事です。

オペラ座図書館・博物館
フランスのオペラやバレーの楽譜など、貴重な資料が収められているそうです。

アヴァン・ホワイエ ( AVANT FOYER )
アヴァン・ホワイエ は 大階段 の吹抜けに面し グラン・ホワイエ との間に位置します。
左に見える吹抜け空間が、大階段 の在る吹抜けです。

アヴァン・ホワイエ のバルコニーから 大階段 の吹抜けを見る。



アヴァン・ホワイエ のや大階段廻りの回廊にはオペラやバレーの衣装が展示されています。


階段を下りながら、大階段 の詳細と吹抜けの周りをじっくりと見て回ります。

大階段 の側面。

このフロアレベルにも色々な衣装や覆面が展示されています。


大階段 の裏側も改めてじっくり見てみましょう。
人も少ないし 裏側は見応えのある場所です。



最初に見た ピュティアの泉 です。



もう一度 大階段 の前に戻って来ました。




最後にイジドール・ピウス 作の天井画アポロンの勝利とエントランスホールの美しい大理石の床を紹介して オペラ・ガルニエ を後にします。

- 2020/08/10(月) 15:43:00|
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オペラ・ガルニエ の二回目です。

観客席を見学出来る、1階のバルコニー席に向かいましょう。

バルコニー席は升席の様に個々に仕切られているので、各々に専用の扉があります。

床はモザイクタイル貼り

左端の開いている扉から客席を見学出来るようです。

早速客席に入ってみましょう。

劇場内は赤い座席と金色の装飾で眩いばかりの豪華さです。

観客席は奥行き巾共に31m。高さは20mです。

「夢の花束」マルク・シャガール作
現在の天井画はシャガールによるもので古典的なものではなく、1964年にオペラ座やエッフェル塔、凱旋門等のパリの名所が描かれています。以前はジュール=ウジェーヌ・ルヌヴーによって描かれたものでした。

中央のシャンデリアの重量は7tと記されている資料と8tと記されているものも有ります。1896年には落下事故も起こったそうです。


ドーム天井を支える2本で一対の柱の頭部を飾る黄金の装飾のは、目を引かずにはいられません。



座席だけでなく隣との仕切り壁の赤い布クロスも豪華さを強調しています。赤い壁ってあまり見たことはありません。

もう一つの見どころ グラン・ホワイエ に移動する前に オルセー美術館 にあった オペラ・ガルニエ の断面模型をご覧ください。

グラン・ホワイエ は写真向かって右端の縦長の吹き抜け空間で、正面出入口の直上に当たります。

ホワイエとは劇場建築において、エントランスホールと観客席の中間地点に位置する人溜まりのスペースで、公園時間の前後や休憩時間に、観客が休憩する為の空間です。

勿論、この グラン・ホワイエ は他に例を見ない豪華な装飾が施され、まるで ヴェルサイユ宮殿の鏡の間 を彷彿とさせる空間で、広さは幅13m、長さ54m、高さは18mあり、ミューズ達が描かれた天井画や、2本で一対のコリン式の双子柱をはじめとした、黄金に彩られたスタッコ装飾で飾られたネオ・バロック様式の空間です。

天井画は観客席と同様の シャガール の作品。





息を飲むような美しく豪華な装飾です。


- 2020/07/26(日) 11:11:00|
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セント・シャペル と コンシェルジュエリー の美しさを満喫したところで、この日も仕事を終えた友人が施設の前に来てくれました。午前中に行く予定だった カルチェラタン辺り を散策し、サン・ジェルマン・デ・プレ教会 や パンティオン を見学しようかとも考えましたが、妻と友人と相談のうえ オペラ・ガルニエ へ向かうことにしました。
サンジュ橋を渡り、シャトレ駅からメトロ-7号線に乗車、オペラ駅で下車すると オペラ・ガルニエ の目の前の広場に出ます。

オペラ駅は宿泊しているホテルから、メトロ-3号線で乗り換え無しで直通で来れるので、この場所から オペラ・ガルニエ を見るのは三度目でしょうか?

同じ場所から ルーブル美術館 方向を見る。
ルーブル美術館 に真っすぐ続くオペラ大通りは、19世紀後半にセーヌ県知事オスマン男爵によって行われた、都市改造計画の一環として造られたものです。

半円アーチの出入口の間に有名作曲家の胸像が並びます。中央がモーツアルトの胸像、その向かって左はベートーベンの胸像です。
半円アーチに支えられる2層レベルのバルコニーには、2本一対のコリント式のジャイアントオーダーに一回り小さなコリント式のオーダー柱が添えられています。
日程に余裕があれば、安い座席も在るのでオペラ観劇を勧められたのですが、日程に余裕は無く、建物の見学だけで諦めました。
オペラ観劇の場合は、この正面からの入場になりますが、見学ツアーは西側の出入口からの入場になります。

西側立面は中央のバロック調のドームが印象的です。
建物の中心の大ドームが少しだけ見えています。大ドームの背後の切妻の頂上に立つアポロンの像も少しだけ見えます。

小さくて分かり難いですが、左右の斜路の中心に設置されているのは、設計者の シャルル・ガルニエ の銅像です。

西側出入場口から入場する前に、北側の立面も見てみましょう。

北側の立面は、正面 ( 南側 ) ・側面 ( 西・東側 ) とは全く違うデザインで、巨大な切妻は迫力満点です。

西側の入り口を入るとチケット売り場の窓口があり、その奥に 円形ロビー( ロンド・デ・サンテ ) が現れます。このホールは建物の中心にある大ドームの真下、また観客席の直下に当たる場所で、車で直接乗り付けられるので、上流階級の為の特別室でもあります。
大階段の在る建物正面の玄関ホール方向へ進みます。

ピュティアの泉
美しい大理石で造られた左右の階段を上ると玄関ホールです。この天井は 大階段 の裏側に当たります。

向かって左側の階段

向かって右側の階段を上って玄関ホールへ

見どころばかりの オペラ座 ですが、 大階段 は一・二を争う見事な空間です。柱・壁・天井の全てに見事な装飾が施されていますが、色彩がシックなので、意外にやり過ぎ感はありません。

大階段 ( GRAND ESCALIER )
階段を上った踊り場状のレベルに、観客席に向かう出入口が在ります。そこから左右に分かれる階段の構成が、この美しい 大階段 の特徴です。

この絵は オルセー美術館 に展示されていたものです。

大階段 の吹き抜けの高さは30mあるそうですが、圧倒的な迫力の前に、私にはそれ以上に感じました。

大階段 を上がります。

カリアティードの門
踊り場の正面には、悲劇と喜劇を表す美しい彫像が支えるペディメントをくぐり、観客席に向かうことになりますが、もう少し 大階段 の周りを見学します。

踊り場から登って来た階段 ( 正面玄関 ) 方向を見返す。

トップライトと天井画に飾られた大天井は、連続する半円アーチとそれを支える2本または4本一対で、大理石で造られたイオニア式のオーダー柱で支えられています。

天井画は イジドール・ピウス 作の アポロンの勝利 等
オペラ・ガルニエ は1989年に、バスティーユ広場に面して建てられた 新オペラ座 ( オペラ・バスティーユ ) に対し、旧オペラ座 または単に オペラ座 、または設計者の シャルル・ガルニエ の名前から オペラ・ガルニエ と呼ばれています。
1860年に ナポレオン3世 の発案により行われた設計コンペに寄せられた171案の中から、若干35歳の シャルル・ガルニエ が採用されたのです。バロック様式から新古典主義までが混在する建築様式を設計者の ガルニエ は ナポレオン3世様式 と言ったらしいです。
設計者 / シャルル・ガルニエ
建築年 / 1875年
所在地 / パリ6区 オペラ広場
- 2020/07/21(火) 12:25:00|
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今回は コンシェルジュエリー を紹介します。
サント・シャペル の見学を終えて パレ・ド・ジュスティス の前へ出て来ました。
パレ・ド・ジュスティス ( パリ司法宮 )
パレ・ド・ジュスティス は、かつての王会( 国王顧問会議 )の建物で、元はカペー朝時代の王宮 ( シテ宮 ) 。コンシェルジュエリー 、サント・シャペル など、様々な王宮当時の遺跡が残っています。

サント・シャペル と パレ・ド・ジュスティス
パレ・ド・ジュスティス と コンシェルジュエリー

コンシェルジュエリー

元はフィリップ4世の宮殿 ( シテ宮 ) として14世紀に創建。その後シャルル5世によって放棄され、1370年からは牢獄として使われました。フランス革命時には隣接する革命裁判所で2780名に死刑判決が下され、多くの王族・貴族が投獄されます。「死の牢獄」「ギロチン控えの間」と呼ばれる恐怖政治の象徴でした。1793年にはマリー・アントワネットも投獄されています。第一帝政期になっても牢獄として使用されますが、1934年に牢獄としての機能は停止され、現在はパリの パレ・ド・ジュスティス( 司法宮 )の一部として、観光名所となっています。

ジャンジュ橋から見る


シーザーの塔と銀の塔
コンシェルジュエリー の名は、旧王宮の司令官、守衛(コンシェルジュ)がいた場所からとったものです。

衛兵の間
ゴシック様式で造られた衛兵の間は兵士達の食堂としても使われました。床面積は1800㎡もあり、4つの広間から出来ています。

高さが8.5mあるリブヴォールトの天井が、柱頭部の照明によって美しく浮かび上がります。






死刑執行準備室を再現したものです。
当時の牢獄は有料だった為、払った額に応じて監房にはランクがあり、最も貧しい者は「わら族」と呼ばれ、藁が敷かれた雑居房で寝かされ、非常に不衛生だったそうです。中流層の囚人の房には簡単なベッドが在り、4~5人で使用。富裕層や著名人の房は家具の在る独房だったとか。


この部屋では、死刑執行のための準備が行われました。

囚人用の礼拝堂
ここが死刑囚達が断頭台へ向かう荷車を待つ場所だそうです。
コンシェルジュエリー の見学を終えたところで、この日も友人が施設の前に来てくれました。サン・ジェルマン・デ・プレ教会 に行こうかと思っていましたが、相談のうえ オペラ・バスチーユ へ向かうことにしました。
- 2020/06/16(火) 08:00:00|
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今回は サント・シャペル を紹介します。
当初の予定では、この後はカルチェラタン辺りを散策しがてら昼食をとり、サン・ジェルマン・デ・プレ教会 を見学する予定でしたが、 アンヴァリッド と オルセー美術館 の見学に時間をとり過ぎたので、予定を大きく変更して サント・シャペル へ向かうことにしました。
オルセー美術館 前のミュゼ・ドルセー駅からRER-C線に乗り、サン・ミシェル・ノートルダム駅で下車し、サン・ミシェル橋を通ってシテ島に渡ります。

サン・ミシェル橋から、修復工事中の ノートルダム大聖堂 を見る。
サン・ミシェル橋を渡り、そのままパレ通りを進んで サント・シャペル へ

サント・シャペル
パレ・ド・ジュスティス の門前から サント・シャペル を見る。
サント・シャペル は現在は パレ・ド・ジュスティス の一部となっています。
高さ75mの尖塔は、落雷や革命の為に何度も倒壊し、現在の尖塔は19世紀に再建されたものです。

サント・シャペル とは「聖なる礼拝堂」という意味で、ルイ9世がラテン帝国皇帝から譲り受けた「キリストの荊の冠」と「磔刑の十字架の断片」の聖遺物を安置することを目的に建てれた礼拝堂で、ゴシック建築の傑作として知られる建物です。
昨年発生した火災により ノートルダム大聖堂 の内部の見学が出来ない今回のパリ旅行では、この サント・シャペル が最も見てみたい建物と言えるでしょう。


サント・シャペル は、1239年から1248年の10年間に、巨額の建設費を投じて建設されますが、王が聖遺物を手に入れる為にラテン帝国皇帝に支払った金額の1/3だったとか。

さあ、いよいよ内部の見学です。

下部礼拝堂
先ずは1階の 下部礼拝堂 から見てみましょう。

宮廷の廷臣や使用人だけでなく、一般庶民も利用出来る礼拝堂であり、上部礼拝堂 と比べ天井高は7mしかありませんが、眩いばかりの美しい礼拝堂です。



この小さな通路から 上部礼拝堂 へ登って行きます。

上部礼拝堂
天井高さは20m。「キリストの受難」「黙示録の書紀者聖ヨハネ」「キリストの幼少時代」時代などが描かれたステンドグラスは、ゴシック建築の最高峰と言っても言い過ぎではないと思います。




息を飲むような美しさです。




15世紀にシャルル8世が献上したバラ窓には「黙示録の主題」が描かれています。





- 2020/06/12(金) 16:30:00|
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今回は オルセー美術館 を中心に紹介します。
アンヴァリッド広場からサン・ドミニク通りを通って オルセー美術館 へ向かいます。サン・ドミニク通りは ブルボン宮殿 裏口の在るユニヴェルシテ通りの一本南側の通りです。
休日の官庁街だからか、時折車が通るだけで殆ど人は歩いていません。そんな静かなサン・ドミニク通りを歩いていると、右手に小さな公園が在り、その奥に高さ69メートルの2つの尖塔とバラ窓を持つゴシック教会の見本の様な教会堂が聳えています。

サント・クロチルド教会
設計者 / フランツ・クリスティアン・ガウ
建築年 / 1857年
所在地 / パリ市7区
フランツ・クリスティアン・ガウはパリにおけるゴシック復興に尽力したドイツ出身の建築家で、サント・クロチルド教会 はパリ市で最初のネオゴチック建築です。
ガウの設計・監理により、1846年に着工されますが、病気の為にテオドール・バリューが監理を受け継ぎ1857年に完成します。
もしもう一度パリを訪れる機会があれば、是非内部を見学してみたい教会堂です。
更にサン・ドミニク通りを東に進み、左手に在るジャック・バンヴィル広場を通り抜けます。

国防省 ?
ジャック・バンヴィル広場とサンジェルマン通りの角地に在る時計塔。
ソルフェリーノ通りを北に進み、リール通りとの交差点を右折すると

レジオン・ド・ヌール勲章博物館
リール通り沿いに在る、まるで 凱旋門 のような入口の両側には、イオニア式オーダーを施した列柱が配されています。
サルム館 として18世紀に建設され、1804年にレジオン・ドヌール勲位局に制定され、以来 レジオン・ドヌール館 となっています。
設計者 / ピエール・ルソー
建築年 / 18世紀
所在地 / パリ市7区
レジオン・ドヌール勲章とは、ナポレオン1世により制定され、国家に功績をもたらした人に与えられる名誉ある称号です。館内には歴史ある多くの勲章が展示され、フランスのみならず世界各国の勲章も見ることが出来ます。

オルセー美術館 ( 西南西側立面 ) が見えて来ました。
以下は一日目に撮影したセーヌ川沿いのアナトール・フランス通りからの写真


セーヌ川対岸からの全景
内部に入りましょう。

オルセー美術館 の建物は、元は1900年にパリで開催された万国博覧会の際に、ヴィクトール・ラルーの設計により、オルレアンやフランス南西部へ向かう長距離列車のターミナル駅駅舎兼ホテル として建設されました。

しかし1939年には駅施設を大幅に縮小して近距離列車専用駅となります。その後さまざまな用途に用いられ、一時は取り壊しの話も上がりますが、保存活用策が検討され、イタリアの建築家ガエ・アウレンティの設計ににより改修され、1986年に「19世紀美術を展示する美術館」 オルセー美術館 として生まれ変わったのです。
設計者 / ヴィクトール・ラルー 改修設計 / ガエ・アウレンティ
建築年 / 1900年 改修年 / 1986年
所在地 / パリ市7区
ガラス屋根の中央ホールは、駅舎当時の地下ホームの吹き抜け構造活かしたデザインになっており、多くの彫像が展示されています。

各所に駅舎当時の痕跡が見られます。

中央ホールには、主に彫像が展示されています。
「地球を支える四つの世界」ジャン=バティスト・カルボー作 ( 1872年 )





「ダンス」ジャン=バティスト・カルポー作 ( 1863-1869年 )
中央ホールの両脇は主に絵画の展示室になってます。

「オランビア」マネ作 ( 1863年 )
「笛を吹く少年」マネ作 ( 1866年 )
「落穂拾い」ジャン=フランソワ・ミレー作 ( 1857年 )


「牧羊場の羊の群れ」ジャン=フランソワ・ミレー作 ( 1861年 )

「踊るジャンヌ・アヴリル」
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック作 ( 1892年 )

「オステリアのマリア-聖餅の聖母」
ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル ( 1854年 )


「ロベール・ド・モンテスキュー伯爵の肖像」
ジョヴアンニ・ボルディーニ作 ( 1897年 )

「カフェにて ( アブサント ) 」エドガー・ドガ作 ( 1873年 )

「14歳の踊り子」エドガー・ドガ作 ( 1881年 )



「退廃期のローマ人たち」トマ・クチュール作 ( 1847年 )

「草上の昼食」エドゥアール・マネ作 ( 1865-1866年 )

「草上の昼食」エドゥアール・マネ作 ( 1862-1863年 )

「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」
ピエール=オーギュスト・ルノワール作 ( 1863年 )

「田舎のダンス」ピエール=オーギュスト・ルノワール作 ( 1883年 )

「都会のダンス」ピエール=オーギュスト・ルノワール作 ( 1883年 )

「青い睡蓮」 クロード・モネ作 ( 1916-1919年 )

「モネの家の庭」 クロード・モネ作 ( 1900年 )

「ロンドン、霧の国会議事堂 」 クロード・モネ作 ( 1904年 )
「日傘の女-左向き」クロード・モネ作 ( 1886年 )

「日傘の女-右向き」クロード・モネ作 ( 1886年 )

「リンゴとオレンジ」ポール・セザンヌ作 ( 1899年 )

「弓を射るヘラクレス」アントワーヌ・ブールデル作 ( 1924年 )

絵画や彫像だけでなく、アール・ヌーボーの美しい家具の展示もありました。











最後に オペラ座 の模型を紹介します。

かなり長い時間、どいてくれるを待ったのですが、この人も真剣に模型を眺めていたので諦めました。

この絵は オペラ座 のホワイエを描いています。


既に2時近くになっていたので、美術館のカフェで軽く昼食にしようかと思っていましたが、この混み用なので諦めて、次の目的地である サン・ジェルマン・デ・プレ教会 に向かいます。
- 2020/06/11(木) 18:12:00|
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今回は アンヴァリッド を紹介します。
ブルボン宮殿 東裏側出入口の在るユニヴェルシテ通りのを西に進みむと、目の前に芝生の庭園が広がります。
右手 ( 北側 ) を見ると、セーヌ川の対 ( 右 ) 岸には

グラン・パレ
グラン・パレ の巨大なガラス張りの屋根が見えます。
左手 ( 南側 ) には、目的地の黄金のドームが・・・。

アンヴアリッド
横幅196mもの巨大な建物の中央に黄金のドームが輝いています。一見しただけでは一体の建物に見えますが、実際には黄金のドームを頂く サン・ルイ礼拝堂 はずっと後方に在るのです。


設計者 / リベラル・ブリューアン
建築年 / 1674年
所在地 / パリ市7区
アンヴアリッド はナポレオンの墓所がある建物と知られていて、ガイドブック等には「ジュール・アルドゥアン・マンサールの設計」と記されていることが多いですが、マンサールが手掛けたのは黄金のドームの サン・ルイ礼拝堂 だけで、施設の大部分はルイ14世によって負傷したり年老いて引退した兵士 ( 廃兵 ) を収容するための療養施設 ( 廃兵院 ) で、1674年にリベラル・ブリューアンの設計で建てられました。

門に近付くとドームが見えなくなりました。パリの歴史的建築物は、金を施した門が多い気がします。ブランス人はよっぽど金が好きなようです。
この辺りにバロック建築の特徴がみられます。
入口から 廃兵院 の中庭へ
左右対称の広い中庭には、花壇や樹木は一切無く、隙間なく石畳が敷き詰められています。

中庭を取り巻く回廊の二階から、中庭とドームを見る。
黄金のドームはまだ先です。
昔は病院だったこの施設も、今では軍事博物館にもなっているので、中庭や回廊の彼方此方に、革命時代の大砲や第一次大戦時代の戦車も展示してあります。






軍事博物館の入口は分かり難いところに在り、回廊を探しあるいて、やっと2階に見つけました。

説明文が読めないので、個別に展示物の詳細は分かりませんが、フランス有史以来の武器や甲冑の他、ナポレオンの遺品も多く展示されているそうです。



写真はごく一部だけで、相当量の剣や銃、そして軍服が展示してあります。
人を殺す道具にも関わらず、まるで芸術品の様に見えてしまいます。
施設のさらに奥にある サン・ルイ礼拝堂 に向かいましょう。

サン・ルイ礼拝堂
旧廃兵院 の後ろには、旧廃兵院 に背を向けるように黄金の サン・ルイ礼拝堂 が建っています。
設計者 / ジュール・アルドゥアン・マンサール
建築年 / 1706年
所在地 / パリ市7区
集中式プランの教会で,上部には巨大な木組み鉛板張りの円蓋を頂き、正面のデザインは2段オーダー,その上部に円蓋を支えるタンブール ( 円筒形の部分) のを重ねる構成はフランス古典主義建築の典型の一つとか。
。
1層はドリス式、2層はコリント式の式のオーダー柱 が並ぶ二層構成になっています。これはルネッサンス様式の特徴でもありますが、フランス・バロック宗教建築の代表例とも言われています。

ドーム教会 に入りましょう。

聖堂内に入りドームを見上げる
天井画はシャルルド・ラ・フォッス作の「楽園の栄光」 ( 1692年 )。ルイ9世が、キリストに剣を差し出す場面を描いたものです。

正面奥の祭壇
コリント式のオーダー柱がドームを支えています。

ドームの真下、集中式プランの中心部分にナポレオンの棺が安置されています。

うねるように曲がる大理石の柱に載る黄金の天蓋



大理石貼りの床はローマで見た教会を思わせます。
地下に下りてナポレオンの棺を近くで見てみましょう。

元はルイ14世がルイ9世の遺体を安置する為と、王家の礼拝堂として建てさせた教会でしたが、1840年には皇帝派と王家の和解の象徴として、セント・ヘレナ島から帰還していたナポレオンの遺体を、墓所が完成した1861年に移したのです。

緑色の花崗岩の台座に赤茶色の斑岩で作られた棺が乗せられています。


- 2020/06/01(月) 16:00:00|
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今回からパリ旅行の三日目です。
三日目と四日目は「ミュージアムバス」を利用するので、オランジュエリー美術館 ⇒ アンヴァリッド ⇒ オルセー美術館 ⇒ カルチェラタン散策 ⇒ サント・シャペル ⇒ コンシェルジュエリー 等を巡る予定です。
宿泊しているホテルの最寄り駅 ( ガリエーニ駅 ) からメトロ-3号線に乗り、オペラ駅で下車し、先ずはラ・ぺ通りを通って ヴァンドーム広場 へ向かいます。

オテル ウェストミンスター
ラ・ペ通り沿いのホテルのエントランスにアールヌーボー風デザインの庇を見付けました。

アールヌーボー全盛の頃の物ではなく、恐らくレプリカだと思いますが、パリの彼方此方でこの様なデザインの庇を見ることが出来ます。

数分歩くと ヴァンドーム広場 です。
広場中央にそびえるのは オーステルリッツ記念柱。

ヴァンドーム広場 を通り過ぎ、十字路を右折してサントノーレ通りを西に入ると、大きなドームの建物が見えて来ます。

ノートルダム・ドゥ・ラソンプシオン教会
正方形の聖堂の上に、ほぼ同規模のドーム ( 直径24m ) が載っています。教会全体の規模に対してドームの割合が非常に高く、ちょっとアンバランスな感じもして、ぱっと見はドームに三角破風のポルチコが取り付いただけと言った印象です。
この教会が建てられたのは17世紀。今回は内部の見学はしていませんが、ネットで検索すると聖堂内部の平面はドームと同径の円形で、ローマの パンティオン とも似ていると感じる人も居るかもしれません。
サントノーレ通りを ノートルダム・ドゥ・ラソンプシオン教会 の前で右斜め前に曲がるとギリシャ神殿の様な建物が見えて来ます。

マドレーヌ教会
設計者 / ピエール・ヴィーニョン
建築年 / 1842年
所在地 / パリ8区、マドレーヌ広場
ルイ15世により、1764年に「聖マドレーヌに捧げるカトリック教会」として建設が始められますが、フランス革命によって工事は中断。ナポレオン1世が「フランス軍の名誉を讃える栄光の神殿」とすることを決定し、建築家ピエール・ヴィーニョンにより古代神殿風のデザインに変更され、1806年に工事は再開。その後のナポレオンの失脚により、ルイ18世が元の聖マドレーヌに捧げる教会に用途を戻し、1842年に完成しました。
聖マドレーヌとはマグダラのマリアを指すのだそうです。
長方形の聖堂の周囲には高さ30m、52本のコリント式のオーダー柱が並ぶネオ・クラシック ( 新古典主義 ) 様式の建物です。ここも内部の見学はしていませんが、内部はギリシャ神殿とは全く異なる様相です。

正面のペディメントには、ギリシャの神々の物語ではなく「最後の審判」のレリーフが施されています。

マドレーヌ広場 からロワイヤル通りを通して コンコルド広場 に建つ オベリスク を見る。

オベリスク の先には ブルボン宮 が見えます。黄金のドームは アンバリッド。ブルボン宮は コンコルド広場 を中心に、マドレーヌ教会 と対に配置された建築物。この徹底した都市デザインが、パリの美しい街並みを造る要素の一つです。

青空でなかったことが悔やまれます。

一日目の夜に来た時には分かりませんでしたが、オベリスク のてっぺんは金色だったんですね。


樹木の上に少しだけ グラン・パレ のガラスの屋根が見えます。
コンコルド広場 の隣の チュイルリー庭園 の一角に在る オランジュエリー美術館 に向かいます。

オランジュエリー美術館
クロード・モネが1914年~1926年に掛けて、ジヴェルニーの自宅の庭の睡蓮をモチーフに描き上げた、「睡蓮」の連作を展示する為だけの美術館。元は チュイルリー宮殿のオレンジ温室 ( オランジュエリー ) でしたが、1927年に美術館として整備されたものです。
2階

日没

朝

緑の繁栄

雲
3階

明るい朝、柳

二本の柳

朝の柳

木々の反映
京都の美術館でもモネの睡蓮を鑑賞したことがありますが、睡蓮の為に設計された美術館にも関わらず、絵画の鑑賞には適さない展示室でした。この美術館は何の飾り気も無いものの、とても鑑賞し易い空間でした。
オランジュリー美術館 の見学時間は、展示されている絵の数が少ないので、予想よりもかなり短く済みました。
コンコルド橋 を渡って左岸に移動します。

コンコルド橋 からシテ島方向を見る。

手前の鉄骨の橋は レオポール・セダール・サンゴール橋。
橋桁だけ見えている石橋は ロワイヤル橋。
中央のドームは コレージュ・デ・キャルト・ナシオン 。
その左に ノートルダム大聖堂 が見えます。
更に左に見える尖塔は セント・シャペル でしょうか?

コンコルド橋 を渡りきった辺りから レオポール・セダール・サンゴール橋 と ルーブル美術館を見る。

ブルボン宮殿
ブルボン宮殿 はルイ14世の庶子ルイーズ・フランソワーズ・ド・ブルボンが建てた宮殿であり、1795年からは フランス国民議会議事堂 として使用されています。
設計者 / ジャック・ガブリエル
建築年 / 1728年
所在地 / パリ市7区、オルセー海岸通り

正面の外観は マドレーヌ教会 と同様のギリシャ神殿風のデザインで、12本のコリント式のオーダー柱がペディメントを支えています。時代と共に改修が繰り返され、12本の列柱は1806年にナポレオンの命により取り付られたものです。

裏側の出入口
フランス国下院議事堂だあって、後ろ側も立派です。写真に写る人の大きさを見れば、扉の大きさが分かると思います。

左 Commission Européenne ( 州政府事務所 )
右 Quilvest Banque Privee ( 銀行 )
一つ上の写真の前に撮ったものです。
ブルボン宮殿 東側のサンジェルマン大通りの建物。
まだコロナの影響が殆どない時期だったので、人通りが少ないのは日曜の官庁街だからです。但しこの頃でも、既に中国人観光客は少なくなっていました。
ブルボン宮殿 の裏側をのユニヴェルシテ通りを通って アンヴァリット へ向かいます。
- 2020/05/26(火) 16:50:00|
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モンマルトル散策の五回目は、テアトル広場 辺りを散策します。

振り返ると サクレ・クール寺院 の大ドームと鐘楼が見える カルヴェール墓地 北側の路地を西に進み、モン=スニ通りとぶつかるT字路を左に曲がると、一分も歩かないうちに テアトル広場 が見えて来ます。


この場所はモンマルトル村の村役場が在った場所で村の中心でした。



モンマルトルは20世紀初頭、 ピカソ や ユトリエ などの多くの画家が暮らしていた場所で、現在は沢山の似顔絵描きが集まる広場です。


広場の周りには沢山の土産店やカフェが建ち並んでいます。似顔絵を描いてもらっている人達を、珈琲をすすりながら眺めるのも楽しそうです。


Maison Maurice Neumont
テアトル広場西側の路地を奥に入ってみると、ちょっと変わった建物が在りました。住宅かと思っていましたが美術館の様です。

壁への落書きは酷いですが、アール・ヌーボーの扉が素敵です。
この建物の前の小さなカルヴェール広場を抜け、狭いブルボ通りを通ってノルヴァン通りへ

ブルボ通り

ノルヴァン通りとのT字路を左折して

Le Consulat Restaurant
100年前には芸術家達が出入りした溜り場だったとか。
ユトリロも描いたモンマルトル最古のサン=ルスティック通り。

サン=ルスティック通り

ユトリエの描いた「サン=ルスティック通り」

ストリートビューで同じアングルを探してみました。
ソル通りに戻って北上し、静かな石畳の坂道を下ります。

ソル通りとコルト通りとアブルヴォワール通りの交わるところ。

コルト通りを見る。

La Maison Rose
左はアブルヴォワール通り、右はソル通り。

モンマルトル 葡萄園
モンマルトルの丘はかつては葡萄園で覆われていましたが、その名残ががこの葡萄園。
この葡萄園で収穫された葡萄から作られたワインは、周辺のレストランで飲むことが出来るそうです。ブラタモリで紹介されていました。



右手にモンマルトル葡萄園を見ながらソル通りを下り、サン=ヴァンサン通りとの十字路。
十字路を通り過ぎ、坂のソル通りを更に下って行くと階段も見えて来ました。

通りの両側にはレトロな建物が並んでいます。

ル・ランシーの街やパリ市内の彼方此方でも見かけた石積の外壁。

ソル通りを進むとコーランクール通りに出て来ました。
夕食は友人がレストランを予約してくれていますが、まだ少し時間があります。
朝から歩き詰めで、もう体力の限界を超えていたのでコーランクール通り沿いで一休み出来るカフェを探すことに。
コーランクール通りを東へ少し歩き、最初に見つけた VICKALUNZO と言うカフェに入り30~40分程休み、バスと歩きでフェルディナン・フロコン通りのレストランに向かいました。

Ⅼe Réciproque ( 14 Rue Ferdinand Flocon,75018 Paris )

内装も素敵です。






この日も何の心配もなく、安心して美味しいディナーを楽しむことが出来ました。
一日付き合ってくれたうえに、レストランの予約までしてくれた友人には感謝の言葉も見つかりません。
- 2020/05/22(金) 15:48:00|
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モンマルトル散策の四回目は、サクレ・クール寺院 の外観を紹介します。

高さ83mの卵型の大ドームを中央に据え、取り囲むように4つの小ドームを配しています。後陣の高さ85mの鐘楼に納められた重さ19tの鐘は世界最大級らしいです。

ガイドブックの写真や観光ポスターで見たように、晴天なら白い大理石の外壁が青空に映えて、さぞや美しかったろうと思うと少し残念です。

正面出入口屋根の上の銅像は、ルイ9世とジャンヌダルク。


聖王 ルイ9世 ジャンヌダルク

窓や出入口に多用される半円アーチはロマネスク様式の特徴であり。

少ない開口部と重々しい外壁に

軒部に施されたロンバルディア帯もロマネスク様式の特徴です。


正面出入口の屋根を支えるアーチと柱


展望台で見たガーゴイルはゴシック様式で見られるものです。

内陣後方の周歩廊のチャペル ( 放射状祭室 )と鐘楼。

高さ85mの鐘楼の鐘は重さ19tで世界最大級。

テアトル広場 に向かいます。
- 2020/05/21(木) 12:39:00|
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モンマルトル散策の三回目は、サクレ・クール寺院 の内部を紹介します。

平面は高さ83mの卵型の大ドームを中心に据えた二廊式十字型プラン。
大ドームの周りに4つの小ドームと後方に高さ85mの鐘楼を配しています。

① 正面の入口付近から、中央の大ドームを見上げる。
先程登ったのは、ドームの天井辺りのです。

①② 中央交差部から内陣天井のキリストのモザイク画を見る。

②

②

①②
入口付近から 身廊 ⇒ 中央交差部 ⇒ 内陣 越しに 祭壇 を見る。
設計者 / ポール・アバディー
建築年 / 1919年
所在地 / パリ市18区
普仏戦争の敗戦、その後の市民騒乱によるパリ市民の傷心を癒す為に、1876年に建設が始まり4千万フランの費用と40年の歳月を掛けて、1919年に完成しました。
エッフェル塔やエトワール凱旋門と並んで、パリのランドマークになっているので、てっきりもっと古い建物かと思っていたので、僅か100年前に建てられた教会堂とは驚きです。歴史的建築物ではなかったんですね。
建築様式は過去の様式を折衷させた折衷主義によるもので、ビサンチン様式 + ロマネスク様式の特徴があり、ゴシック様式の要素も垣間見えます。

③ 入口を入って左 ( 西 ) 側小ドーム下の祭壇を見る。

③

④ 同じ場所から左側、入口横の祭壇を見る。

⑤ 入口を入って右 ( 東 ) 側小ドーム下の祭壇を見る。

⑥ 同じ場所から右側、入口横の祭壇を見る。

⑧⇒⑦ 中央交差部越しに、左 ( 西 ) 側翼廊のステンドグラスを見る。
窓や出入口には半円アーチが多様されています。
⑦ ステンドグラスのアップ。

⑦⇒①⑧ 中央交差部から中央ドームと右 ( 東 ) 側翼廊を見る。

⑦⇒⑧ 中央交差部越しに、右 ( 東 ) 側翼廊のステンドグラスを見る。

⑦⇒⑨⑪ 周歩廊方向を見る。

⑨ 左 ( 西 ) 側奥の小ドーム下の祭壇を見る。

⑨⇒⑩ 右 ( 東 ) 側奥の小ドーム下の祭壇方向を見る。
⑩ 右 ( 東 ) 側奥の小ドーム下の祭壇を見る。
内陣後方の周歩廊には7つのチャペル ( 放射状祭室 ) が在ので、時計回りに歩いてみましょう。

⑪ 周歩廊から内陣天井を見る。

⑪ 左から二つ目のチャペル ( 放射状祭室 )

⑪ 同じ場所から内陣側を見る。

⑫ 左から三つ目のチャペル ( 放射状祭室 )

⑬ アプス真後ろ、左から四つ目のチャペル ( 放射状祭室 )

⑬ 天井のモザイク画のアップ

⑬ 同じ場所から内陣側を見る。


⑭ 左から五つ目のチャペル ( 放射状祭室 )

⑭ 同じ場所から内陣側を見る。

⑮ 左から六つ目のチャペル ( 放射状祭室 )

⑮ 同じ場所から内陣側を見る。

⑯ 左から七つ目のチャペル ( 放射状祭室 )

⑯ 同じ場所から内陣側を見る。

⑯ 同じ場所からアプス真後 ( 四つ目のチャペル ) を見る。

⑯ 同じ場所から東側側廊を通して入口横の祭壇を見る。

⑯ 同じ場所から⑨の左 ( 西 ) 側奥の小ドーム下の祭壇方向を見る。

最後にもう一度中央大ドームを見上げて、聖堂を後にします。
- 2020/05/20(水) 19:08:00|
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モンマルトル散策の二回目です。
今回はモンマルトルの丘の上に建つ サクレクール教会 から眺めた、パリ市内の風景を紹介します。

先ずは サクレクール寺院 の前のテラスから見たパリ中心部の眺めです。
天気の悪さは残念ですが、ここからの眺めも充分綺麗なのですが、この日も朝からパリ観光案内をしてくれている友人が「ドームの上からだと、もっといい眺めだから登ろう」と提案。朝から歩き詰めだったうえに、ピカソ美術館で買った陶器のカップの重さも、この頃になって辛くなり始めていたので、長い階段を登る体力が残っているとは思えませんでした。ただ横に居た妻の顔を見ると、私より疲れていた筈なのに、断る様子はありません。ここで男の私が音を上げる訳にも行かず ( 昭和の考え )、腹を括って登ることにしました。

ドームへ上るには、教会西側の階段を一階分地下に下た、地下一階が入口なので一階分損をした気分です。


何処がゴールか分からない、狭くて長い薄暗い螺旋階段を登るのはまるで苦行の様で、カバンの中のピカソのカップも肩に食い込みます。何度も立ち止まりながら、やっと明るい所に出て来ました。でもここはゴールではなく航空写真の矢印の部分で、北西の小さなドームから中央ドームへ移動する屋根の上だったのです。更に中央のドームを登らなければなりません。

ルーブル美術館方向 ( 南 ) 。目前の緑地はウォレット公園です。
再び苦行の続きを味わった後には、こんな素晴らしいご褒美が待っていました。
曇天なのは残念ですが、パリを一望できる素晴らしい眺めです。


モンパルナスタワーとエッフェル塔が見えます。( 南南西方向 )
じっくり景色を見る前にドームを一周してみましょう。

南東側の小ドームを見る

イタリア旅行の時は、バチカンでもフィレンツェでもドームには登らなかったので、ドームに登ったのは初めての体験です。


2月のパリ、しかも丘の上に建つ吹き曝しのドームの上が暖かな筈はありません。私だけ上着を脱いでいるのは、人一倍汗っかきで汗びっしょりになっていたからです。
ここでは エッフェル塔 を摘まみ上げてみました。

南西 ( エッフェル塔 ) 方向を見る。

南南西 ( モンパルナスタワーとエッフェル塔 ) 方向を見る。
よく見るとモンパルナスタワーの下辺りから
ルーブル美術館 ⇒ オルセー美術館 ⇒ オペラ座 ⇒ アンバレットが見えます。


金のドームの アバリッド の右下に ブルボン宮 も見えます。

南方向を見る。

拡大すると、左側に サン・ジャック塔 ⇒ ノートルダム大聖堂 右側には パンティオン ⇓ サント・シャペル ⇓ サン・トゥスタッシュ教会 見えます。

南南東 ( ポンピドゥーセンター ) 方向を見る。

拡大すると ポンピドゥーセンター がはっきりと見えます。
次回は内部を紹介します。
- 2020/05/15(金) 14:30:00|
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今回からモンマルトル散策です。
パリに在住している友人と一緒だったので、移動時は彼女の後ろを付いて行くだけで、どこをどう乗り継いだかはよく覚えていませんが、恐らくマドレーヌ駅で8号線から12号線に乗り換えて、アベス駅まで行ったのだと思います。

メトロ・アベス駅 出入口
モンマルトルに来た理由には「モンマルトルの丘の上からパリの街を眺めたい」「テアトル広場 に行ってみたい」「サクレ・クール教会 を見学したい」などの理由がありましたが、一番の目的は、近代建築史の本でアール・ヌーヴォーを解説する際には必ず登場する パリ・メトロ出入口 を見たかったからです。旅行の直前まで、パリの何処でも見ることが出来ると思っていたアール・ヌーボーの メトロ出入口 は、この アベス駅出入口 の他は「2号線-ポルト・ドーフィヌ駅」と「シャトレ駅」だけだと分かりました。シャトレ駅 はこの日の午前中に利用しするも見付けられず、ポルト・ドーフィヌ駅 には行く予定が無かったので、アール・ヌーボーの メトロ出入口 を見られるのは、ここ アベス駅 が唯一の場所なのです。

アール・ヌーボーの意味は「新芸術」。
19世紀末期から20世紀初期に掛けてヨーロッパで発生し流行した芸術運動で、植物や動物をモチーフとした自由曲線で描かれているのが特徴です。
パリ・メトロ出入口 は、1900年に開催されたパリ万博に合わせて開通したメトロのもの。設計者はデザインコンペによって選ばれたエクトール・ギマールです。
以前から奇抜なデザインで話題になっていたギマールのデザインは、賛否両論を巻き起こすこととなりますが、アールヌーボーはパリでも流行し、ギマールが手掛けた パリ・メトロ出入口 は、最盛期には166ヵ所も在りましたが、第一次大戦混乱による不況もあり「金が掛かり過ぎる」と否定され、ギマールの出入口 も取り壊されるなど、やがて半減してしまいます。1960年代に入ると再評価されますが、現在は上記の3ヵ所だけになってしまったのです。



駅前広場には、可愛らしいメリーゴーランドも設置されてます。
広場に面する公園には

ジュテームの壁
ジュテームとはご存知の通り「愛してる」の意味。フレデリック・バロンの作品で、612枚の青いタイルに、300以上の言語で「愛しています」の意味の言葉が綴られています。勿論日本語も・・・。縦書きされているので見つけ易いので、クリック ( 拡大 ) して探してみて下さい。

サン・ジャン・ド・モンマルトル教会
設計者 / アナトール・ド・ボド
建築年 / 1904年
所在地 / パリ18区

一見煉瓦造の教会に見えますが、外壁は鉄筋コンクリート造で、パリで最古の鉄筋コンクリート造の教会堂建築だったのです。

驚いたことに、柱とアーチは鉄骨を剥き出しにした斬新過ぎるデザイン。尖頭アーチなどゴシック様式の特徴に幾何学模様を織り交ぜたデザインも独特です。
( 内部の柱も鉄筋コンクリート造と記されたサイトもありました。実際に触って確認してくればよかったです。)

恥ずかしながら、今回この記事を書く為に改めて調べるまでは、この教会の事もアナトール・ド・ボドと言う建築家の名前も全く知らなかったので、写真も数枚しか撮っていません。もう一度パリを訪れる機会があれば、じっくり見学してみたい建物です。

更に驚いたのは、この教会堂の玄関を飾るセラミックタイルを担当したのは、フランクリン街のアパート のタイルを担当したアレクサンドル・ビゴだと言う事です。


やはりビゴは重要人物だったみたいです。

サン・ピエール広場に向かいます。

さりげない飾り付けも色鮮やかで素敵です。


数分で サクレクール教会 を見上げるサン・ピエール広場に到着します。

サン・ピエール広場で、サクレクール教会 をバックに記念撮影。


アベス駅前のものよりも本格的なメリーゴーランドが在ります。ヨーロッパの広場にはメリーゴーランドが付き物のみたいです。

ここから見ると サクレクール教会 は目の前にあるように見えますが、サン・ピエール広場 との間にはウォレット公園と言う斜面を利用した公園が在り、 サクレクール教会 までたどり着くには、公園内の長い階段を登るか、メリーゴーランドの裏から乗るケーブルカーを利用するしかありません。

20年若ければ、一気にこの階段を駆け上がりたいところですが、かなり疲れていたのでケーブルカーで登りました。
- 2020/05/12(火) 11:41:00|
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今回はマレ地区散策の4回目。

今回はヴォージュ広場から、バイティーユ広場までの道のりです。

K ヴォージュ広場 北側の建物の回廊
広場の四方は、同じデザインの建物が囲んでいて、全ての建物は広場に面して回廊が在り、骨董店やアートギャラリー、カフェ等の飲食店で賑わっています。

30 J 広場北側は 王妃の館
ヴォージュ広場 はアンリ4世が造られたパリ最古の公園の一つ。
アンリ4世は「パリを世界一美しい都にしたい」と望みましたが、暗殺によって1612年の完成を見ることは出来ませんでした。この公園は完成当初は「ロワイヤル広場 ( 王の広場 ) 」と呼ばれ、フランス革命の際に、現在の ヴォージュ広場 へ改名されます。
四方の建物は、南棟の「王の館」北棟の「王妃の館」を含め、36もの館で囲われ、ヴィクトル・ユゴーをはじめ、多くの貴族や政治家、作家等が住んでいました。
設計者 / Louis Me'tezeau
建築年 / 1612年
所在地 / パリ3・4区

30 K 広場西側の建物
四方の建物のデザインは、アンリ4世の命により統一されていて
1階は半円アーチのアーケード。
2・3階は赤煉瓦に、窓廻り等には白い石材でアクセントを施した外壁。
急勾配の屋根面には、ドーマーウィンドゥーを施しています。
東京駅のデザインに似ている気がします。

L 広場南側は 王の館

30 ヴォージュ広場 のベンチで一休み。石はアスファルトよりも固く、しかも凸凹しているので、石畳の道を歩くのは、慣れないとかなり辛いです。
西棟の回廊を南に進むと、南棟に抜け道のような通路が空いています。

31 シュリー館 / オテル・ド・シュリー庭園 庭園南側の棟。
通路を抜けるとまた小ぶりなフランス式庭園に出て来ました。
ヴォージュ広場 の南西に隣接するこの館も同時期に建築されました。アンリ4世やルイ13世に仕えたシュリー公の邸宅です。
建物中央に中庭を通ってサン=タントワーヌ通りへ抜ける通路が見えます。

31 オテル・ド・シュリー庭園 振り返って庭園北側の棟を見る。
写真右下の出入口がヴォージュ広場に繋がっています。

32 シュリー館 オテル・ド・シュリー庭園から、通路を抜けてシュリー館中庭に入り建物を見返す。

通り抜けて来た通路の出入口の両側に、奇妙な像が

頭と胸は女性で、その他の体はライオンでしょうか?

33 シュリー館 サン=タントワーヌ通りから見る。
サン⁼タントワーヌ通りを東へ進み バスチーユ広場 へ向かいます。
ちょっと寄り道して

M サン・ポール・サン・ルイ教会
完成は1641年。パリでは唯一のバロック様式で建てられた教会堂らしいです。
サン=タントワーヌ通り沿いの建物を見て行きましょう。

34 JACADI PARIS SAINT ANTOINE ( 子供服店 )
N Hotel de Mayenne
建築年は1617年。ヴォーグ広場の建物とデザインも似ていますが、時期も一致しています。
設計者 / アンドルーエ・デュ・セルソー
建築年 / 1617年
所在地 / パリ地区

35 サント・マリー教会
プロテスタントの教会らしいですが、詳細は不明です。

36 バスティーユ広場 7月革命記念柱 が見えて来ました。
4区、11区、12区の3つの区に跨っているこの広場は、元はバスティーユ牢獄があった場所。
1789年7月14日のフランス革命の発端となったバスティーユ襲撃事件が発生した場所で、バスティーユ監獄は1792年に取り壊されます。この記念柱は1830年の7月革命を記念する 7月革命記念碑 として1846年に建てられました。



天使の像はオーギュストデュモン作


37 Banque de France ( 金融機関 )

38 飲食店やモデル事務所が入居する建物

39 オペラ・バスティーユ ( 新オペラ座 )
バスティーユ広場 に面して建つ建物でもっとも有名なのが、この 新オペラ座
設計者 / カルロス・オットー
建築年 / 1989年
所在地 / パリ12区

1982年に当時のミッテラン大統領によって建設計画が始まり、翌1983年に設計コンペが行われ、建物が完成したのは1989年。2005年には改修工事も行われています。

バスティーユ駅からメトロに乗ってモンマルトルへ向かいます。
- 2020/05/11(月) 15:50:00|
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