カラカラ浴場から宿泊しているテレミニ駅近くのホテルに帰る途中に在るので、歩こうかとも思いましたが、万歩計の数字は既に3万歩近くになっていたので、ローマパスを使ってバスで移動することにしました。
イタリア語の分からない私でも、なんとかサン・ジョバンニと書かれているらしきバス停でバスを降りると、そこはオベリスクの在る広場でした。

中央にオべリスクの立つサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ広場
後で調べてみると、ローマでは最も背の高いでオベリスクで、エジプトから運びこまれた最後のオベリスクだと分かりました。

このオベリスクは、紀元前14世紀にトトメス4世によって建てられたテーベのカルナック神殿に在ったもので、357年にエジプトから持ち出され、チルコ・マッシモに設置されました。
ローマ帝国滅亡後、競技場は廃墟と化して永く放置されますが、1587年に3つに壊れたものが発見され、翌年この場所に移されたのです。

広場に面して教会らしき建物がありましたが、事前に調べてあった外観とは少し違う気がします。
とりあえず中を覗いてみようかと思いましたが、扉は閉まっていて中に入れる様子はありません。
疲れていたこともあり、諦めて地下鉄でホテル帰ろうと、建物の裏側に歩いてゆくと、裏側にも広場 ( サン・ジョバンニ門広場 ) があり、何とそちらが教会の正面でした。

サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂
この教会もローマ四大教会の一つで、バチカンに教皇庁が移る1377年までは、カトリックの総本山だった大聖堂なのです。
ローマの4大聖堂とは サン・ピエトロ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂です。

ローマ帝国末期の313年頃にコンスタンティヌス帝によって教皇に寄進され、世界史の教科書にも載っている、ミラノ勅令よってローマ帝国はキリスト教を公認しました。
正式な献堂式は324年に行われ、ローマで最大の聖堂であることから、世界の母なる聖堂と称され、聖堂の中の聖堂としての栄誉を受けます。
聖堂正面の銘文には「ローマ、そして世界の聖堂の母」と記される世界で最初に建てられたキリスト教の聖堂なのです。

バチカンのサン・ピエトロ大聖堂に、どことなく似た雰囲気の正面のデザインですが、屋根には15体の巨大な聖人達の彫像がのっています。
教会内部の大改修は、17世紀にボッロミーニの設計によって行われていますが、正面のファサードは、1735年にガリレイの設計により、現在見ることが出来る、聖人達が立ち並ぶ外観が完成しています。

このファサードの改修によって、教会の正面に残っていたローマ帝国時代のバジリカ聖堂の面影は全て失われたと言われています。
コロッセオやバチカン、トレビの泉や真実の口のような人気の観光地ではないので、すんなり教会内部も見学出来ると思っていたのですが、何と200人近い大行列が出来ていて、セキュリティーチェックもやっていて、中に入るまでには相当時間が掛かりそうです。
この日は諦めてホテルに帰ったので、実際に内部を見学したのは、二日後のローマ滞在の最終日になりました。
なのでこの後の写真は、二日後のものです。

先ずは聖堂の前のポーチ部分、拝廊から。

この日の朝、最初に訪れたサンタ・マリア・マジョレー大聖堂にも勝る荘厳な聖堂内部の装飾。

特に、16世紀に改修された、黄金に輝く各天井の豪華さは圧巻です。


表側 ( 外側 ) から撮り忘れてしまいましたが、この大きな扉はフォロ・ロマーノの元老院から持ち出されたものです。

地震や火災により、何度も改修が行われたこの教会は、17世紀にボロッニーミによって大改修が行われ、現在のバロック様式に整えられました。
それでも五廊式、十字形平面構成の室内からは、全体の空間構成をはじめ、ところどころに古代ローマ建築の残像見ることが出来ます。

コスマーティ模様の床モザイクもその一つ。

側廊 ( 身廊の両隣り )
五廊式とは、聖堂内を縦に5つの廊下で区画したもので、祭壇と対峙する中央の幅の広い区画を身廊と言い、身廊の外側の2列の区画を側廊と言います。

側廊 ( 更に外側 )
身廊に戻ります。

十字型平面中央のクロッシングと呼ばれる部分には、1367年に造られたジョヴァンニ・ディ・ステーファノ作の祭壇があります。

教皇ウルバヌスの為に造られたゴシック様式の祭壇は教皇専用のもので、一面に3枚ずつ、計12枚のフレスコ画で飾られています。

祭壇内部 ( たぶんこの部分 ) には、聖ペテロと聖パオロの頭蓋骨の一部が収められているらしいです。

祭壇の前には地下に降りる階段があります。
長くなったので次回に続きます。
※ この記事内の説明文は「週刊ユネスコ 世界遺産」 「Wikipedia」 を参照しています。
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