

ハドリアヌス廟は五賢帝の一人で、建築家としても知られるハドリアヌス帝が、自分を含めた以後のローマ皇帝の永遠の霊廟として紀元135年に建設を始め、次期皇帝アントニウス・ピウス帝の時代に変った139に完成しました。

霊廟復元模型

霊廟復元図
4世紀の歴史家プロコピウスは、以下のようなローマ帝国時代の霊廟の描写を残しています。
「 四角形の基壇の上に巨大な塔が建ち、ドーリス式の円柱や彫像で飾られ、埋葬された皇帝達の墓碑が並んでいる。
頂上には4頭立て戦車を引くハドリアヌス帝の青銅像が設置され、壁面と言う壁面には白大理石が貼られている。
この霊廟はコロッセオと並んで、古代ローマを代表する素晴らしい建物である。 」
建設当時のハドリアヌスの霊廟は、現在の要塞のような厳しい姿ではなく、白亜の神殿と言えるような、優美で美しい姿だったのです。

しかし、皇帝の霊廟としての役割は、217年のカラカラ帝の埋葬が最後となります。
ローマ帝国末期の403年には、アウレリアヌスの城壁の一部に組み入れられ、軍事施設としての使用が始まります。
590年、教皇グレゴリウス一世が、ローマを襲ったペストの終息を祈願している時に天使が現れ、その後ペストは納まり、直後に礼拝堂が建てられ、以後サン・タンジェロ ( 聖天使 ) 城 と呼ばれるようになったのです。

円筒形の直径は64m。 横から見た姿は、トーチカのようにも戦車のようにも見えます。

14世紀以降は歴代のローマ教皇によって要塞とされ、また同時に牢獄や避難所としても使用されたのです。
1527年、教皇クレメンス七世は、あの忌まわしいローマ略奪の間、皇帝カール5世率いるドイツ人傭兵の手から逃れる為、要塞化されていたサン・タンジェロに立て籠もったのです。

このアングルから見ると、霊廟としての面影はなく、まさに要塞です。

17世紀前半には教皇ウルバヌス八世がさらなる強化をすすめ、17世紀後半には教皇クレメンス九世は、ベルニーニにサンタンジェロ橋の装飾を依頼。
欄干には、ベルニーニ作の2体の彫像を含む10体の天使像が飾られています。

サン・タンジェロの名前の由来は上で触れました。
16世紀にラファエロ作の大理石の天使像が頂上に設置され、1753年からは青銅製の像に変えられています。
時間の余裕がなく、サン・タンジェロ城の内部の見学は諦めましたが、夜景が綺麗だと聞いていたので、二日目の最後に、夜景を撮影する為に戻ってきました。




本当はもっと暗くなるまで待ちたかったのですが、3月半ばのローマは寒い割には陽が長く、なかなか暗くなりません。

残念ながら疲労と寒さに耐えられなくなり、この写真を最後に夜景の撮影は諦めて、ホテルに戻ることにしました。
※ この記事内の説明文は「Wikipedia」「週刊ユネスコ 世界遺産」「ローマ過去と現在」「ローマ昨日と今日」「ローマヴァティカン市国・システィーナ礼拝堂」 」「西洋建築史図集」等を参照しています。
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