シャイヨー宮 の広場を抜けてパリ有数の高級住宅街と聞くパッシー地区へ。
シャイヨー宮 西棟の直ぐ北側のフランクリン通りを歩くと直ぐに、一般の方にはそれ程は知られていないかもしれませんが、近代建築史を学んだものなら誰もが知る建物が在ります。
フランクリン街のアパート
両側の建物と全く隙間なくこの建つこのアパートメントは1903年に建てられました。
設計はオーキュスト・ペレーとギュスターヴ・ペレーのベレー兄弟。
父親の建設会社を受けついだペレ-兄弟は、著名に A . G . Perret とするほど常に協力し、19世紀の後半に先ずは土木界に徐々に広まり、19世紀末期には建築界にも取り入れられ始めた鉄筋コンクリート構造の可能性の追求に勤めました。
ペレー兄弟のデザインの考え方は「最小限の材料と労力により最善の仕事をする」「構造の単純化」「コンクリートの美しさを生かす」ことでした。
フランクリン街のアパート は初期の鉄筋コンクリート造の建築として、ペレー兄弟のデザイン思想を実践した建築として、多くの近代建築史の本に登場する、大変重要な建物なのです。
セットバックしている7階と8階はペレー兄弟の自邸でもあります。
屋上には、後にル・コルビジュエが近代建築の5原則の中でも挙げた屋上庭園を連想させる屋上植栽が、既に試みられています。
1階はペレー兄弟社のアトリエだった時期もあり、若き日のコルビジュエも働いていました。
2~6階は賃貸アパート。
周りのアパートと比べ、鉄筋コンクリート造の特性を最大限に活かした開口部の非常に多いデザインとなっています。
建築学体系-近代建築史 によると、あまりに開口部が多いデザインは、壁ばかりの組積造の建物に慣れ親しんでいる人々にの目には弱い建物と映ったらしく、専門家でさえ早期の倒壊を予想した為に、銀行はこのアパートへの抵当権の設定を拒絶したとか。
ただ、学生の頃に読んだこの文献に書かれていたものとは、外壁のイメージが大分違っている部分があります。
建築学体系-近代建築史 には「ここで驚かされるのは、鉄筋コンクリートの骨組みが、粉飾 ( 装飾の誤記かも? ) されずに建物の構成要素としてはっきり外面に現れていることである。
事実正面にわたって通った垂直および水平の柱や梁は、目を奪うほどであり、その間には何の装飾もなくて、ただ2階から7階までの階を街路上に片持梁で突き出した部分だけが、この装飾なしのファサードをいっそう軽快なものにするのに力をかしている。」と記されているのです。
実際に見た フランクリン街のアパート は、コンクリートが剥き出しになっているところはなく、様式的な装飾ではないものの、壁と言う壁には派手な花柄のタイルで飾られているじゃありませんか!!
勿論、事前にネットでカラー画像を見ていたので、建築学体系の文章から連想されるような無装飾なファサードとは思っていまんでしたが、花柄のPC板の様なものかと思っていました。
「見ると聞くとは大違い」とはまさにこのことです!!
構造設計を担当したのは フランソワ・エンヌビック 資料には鉄筋コンクリート ラーメン構造と記されていますが、ラーメン構造と言うにはあまりの柱の細さに驚かされます。
この基準階のプランはネットに載っていた資料を私がトレースしたものですが、寸法や縮尺の記載が無かったので、グーグルアースで間口寸法をを推測して作図しました。私の推測が正しければ柱の直径は40cm足らずです。
この派手な陶器のタイルを担当したのは アレクサンドル・ビゴ
実際に見るまでは、現存する世界最古のコンクリート造のアパートと言う事に注目していましたが、この建物が100年以上もこのように綺麗な状態で維持されていると事実も含めて、構造体である鉄筋コンクリートを外気から守るタイルのデザインを担当したビゴの果たした役割は、非常に大きいのではないでしょうか。
こんなタイルは日本では見たことがありません。
構造設計者 / フランソワ・エンヌビック
竣工年 / 1903年
所在地 / パリ16区フランクリン通り
最後に比較対象として、同じフランクリン通り沿いの他のアパートの画像もアップしておきます。