出来れば昨年の内に「パリ旅行記」を終わらせたかったのですが、あと数回はお付き合いをお願いします。
カルーゼル広場から見た ルーヴル美術館
ルーヴル美術館 はあまりに巨大な建物なので、地上からではその全景を写真に収めるのは不可能なので、先ずは手持ちの資料の鳥観図から。
上の写真より少しだけ前進して広角レンズで撮影。ルーヴル宮殿 は完全に近い左右対称のデザインで、同じ様式で建てられているので、同時期に一つの設計思想に則って建てられたものに見えます。
王政期~革命期~帝政期 に渡り多くの王や皇帝によって、数百年もの永い歳月を掛けて造られたとは驚きです。
上の図には記されていませんが、ルーヴルは1190年にカペー朝のフィリップ二世が、北方からのノルマン人の侵入を防ぐ為にセーヌ川右岸に建てた要塞が始まりです。その後、歴代の王達はルーヴルを離宮として利用し始め、次第に王の御座所や会議や宴会の出来る棟も建てられます。14世紀のシャルル五世の頃には、大きな窓と急勾配の青い屋根を持つ優雅な城に変わって行きます。正式な王宮としての建設が始まるのは1527年に行われたフランソワ一世の宣言によってです。フランソワ一世は■の部分にルネサンス様式の宮殿を建てます。その後カトリ-ヌ・ド・メディシスは■の部分 1871年に焼失したチュイルリー宮殿とセーヌ川沿いの一画を建設。続いてアンリ四世はグランドギャラリーを建設してそれらを繋げます。更にアンリ四世は方形広場(クール・カレ)と宮殿の面積を4倍に広げる計画を立案。続くルイ13世は■の部分を、ルイ14世は■の部分を建設してその意思を継ぎます。しかしその後、ルイ14世はヴェルサイユ宮殿の建設に心が移ってしまい、ルーヴル宮殿は100年以上に及んで放置され、市民が勝手に住み着いて荒れ放題の時代が続くのです。そんなルーヴルを救ったのは皇帝となったナポレオン一世とナポレオン三世です。ナポレオン一世は■のセーヌ川沿いのクランドギャラリーと対をなす北側棟の部分。最後にナポレオン三世が現在のルーヴル宮の姿が完成する為に必要な、残りの多くの■の部分を建設したのです。左から リシュリュー翼 シュリ翼 ドゥノン翼
左側の北棟はリシュリュー翼 ガラスのピラミッドの後ろはシュリ翼
リシュリュー翼コーナーの部分にはナポレオン三世が暮らした居室が在ります。
リシュリュー翼
(一日目に撮影)
リシュリュー翼の先端部 (一日目に撮影)
(一日目に撮影)
南 (セーヌ川) 側に目を移します。南棟 ドゥノン翼 門はカルーゼル門
セーヌ川沿いのフランソワ・ミッテラン通りから見たグランド・ギャラリーとカルーゼル門 (一日目に撮影)
ドゥノン翼の先端部をセーヌ川の対岸から写したもの (一日目に撮影)
ドゥノン翼、グランド・ギャラリーの先端部 (一日目に撮影)
ガラスのピラミッド の前に戻って来ました。
ルーヴル・ピラミッド はナポレオン広場の中央に、美術館のメイン・エントランスとして 1989年に、当時のミッテラン大統領による「パリ大改造計画」の一環として、建築家イオ・ミン・ペイ の設計により完成しました。
高さ20.6メートル、底辺35メートルで、603枚の菱形と70枚の三角形のガラス板で構成された中央の大ピラミッドの周りに、3つの小ピラミッドが囲むように配置されています。
美術館に訪れる入館者は、先ずはこのルーヴル・ピラミッドを通って巨大な地下ロビーへと降りてから、南棟 (ドゥノン翼)、東棟 (シュリ翼)、北棟 (リシュリュー翼)へと分散して昇って行くと言う動線とすることに成功。 膨大な数の入館者に対応しきれないという問題点の解決させました。
建設当初はエッフェル塔やポンピドゥーセンター建設の時と同様に、パリの伝統的な街並みを壊すものとして、ここでは「古典的な建築物であるルーヴル宮殿の前には相応しくないのではないか」と言われましたが、今ではパリのランドマークの一つになりつつあります。